第23章 もの思へば 沢の蛍も 我が身より✔
(柚霧…?)
くしゃくしゃに皺を寄せた布団を掴み、体を起こす。
部屋は眠りに落ちる前と変わらない。
しかし其処に、求めた女性の姿はなかった。
「唄を──…かなりや──…背戸の小藪に──…埋けま…」
明け方か、行灯の光は消えていたが室内はほんのりと明るい。
賑やかな宴の声もなく静寂に満ちた世界で、杏寿郎の耳に届いたのは微かな鼻歌。
着流しを崩し羽織ったままの姿で、誘われるように腰を上げる。
途切れ途切れの鼻歌は、ふすま障子の向こう側から聴こえてくる。
「いえいえ、それは──…なりませぬ」
静かながら、心地よい歌声だ。
耳に音色を残しておきたくて、そっとふすま障子の端から伺うように杏寿郎は先を覗いた。
「唄を忘れた、かなりやは…象牙の船に。銀の櫂」
昨夜茶を嗜んだ居間には、一人の女がいた。
縦長の丸い鏡が付いた鏡台の前に座り、髪を一つにまとめている。
「月夜の海に浮かべれば──」
背を向けている為、顔は見えない。
鏡に映っているはずの表情も、丁度その背で隠れてしまい伺うことは不可能だった。
それでも一目でわかる。
聞いた声に、知った背中。
珊瑚色の玉簪で髪をまとめ上げる者は、杏寿郎の知る限りでは一人しかいない。
「忘れた唄を、思い出す」
しゃらん、と儚げなビラ簪が舞う。
鏡台の上に乗せていたそれを袖で落としてしまい、女は不意に頭を下げた。
「──…柚霧?」
珊瑚色の玉簪よりも、ビラ簪に杏寿郎は反応を示した。
つい開いた口は、無意識に彼女の名を呼ぶ。
ビラ簪を拾い上げた女が、ゆっくりと顔を上げて振り返る。
鮮やかな緋色の縦に割れた瞳ではない。
暗い、底の見えない瞳を緩め。紅の引かれていない口元で、ふくりと笑った。
「おはよう。杏寿郎」
聞き慣れた声だ。
形(なり)もよく知っている。
だがそれは、昨夜鮮やかに舞って魅せた金魚のような女ではなかった。
「…蛍」
ふすま障子から歩み出し、名を呼び変える。
同じに腰を上げると、女──蛍もまた、杏寿郎へと向き直った。
「うん」