第23章 もの思へば 沢の蛍も 我が身より✔
「あ、れ…」
一つ瞬けば、更にひとつ。
頬を滑り落ちていく。
言葉にならず驚く杏寿郎の腕の中で、柚霧も唖然と気付いたように指を目元へと当てた。
「っすみません、急に」
涙を流した理由さえ、本人が掴めていないようにも見える。
それは杏寿郎に、煉獄家の縁側で槇寿郎と向き合っていた蛍の姿を思い起こさせた。
子を宿せないことに間接的に槇寿郎に触れられて、涙を零していた。
理由はわかっているのに、涙を流してしまったことには頭が追い付いていなかった。
心と体がちぐはぐなまま。
今の、柚霧のように。
「柚霧…もし失礼なことを言ったのなら謝る。君の心を勝手に決めつけた」
「ちが…ごめんなさい。杏寿郎さんの言葉に、傷付いた訳じゃないんです」
ひとつ、ふたつと零れ落ちる雫を拭いながら、柚霧は両手を顔の前に広げた。
鬼の身体は、なんとも都合のいいものだと思っていた。
足を切り落とそうとも、強姦されようとも、そんな痕跡は数日と経たず消えてしまうのだ。
綺麗さっぱり、そんなこと元から無かったかのように。
(そうじゃ、なかったんだ)
起きてしまったことを取り消すことなど、普通はできはしないのに。
足を切り落とす度胸がなかったのは、痛みに恐怖したからだ。
体の一部を失う恐怖を、心は知っていた。
童磨のリボンを感じて眠れなかったのは、睡眠を欲しない鬼だっただけではない。
あの時の行為が、未だに巣食っていたからだ。
力で無理矢理に捻じ伏せられる虚脱感を、心は知っていたからだ。
綺麗さっぱり無くなった訳ではなかった。
細菌のように、それは少しずつ蛍の心を蝕み喰らっていた。
「(私…私、は──)…こわか、った」
〝怖い〟
そんな当然の感情を、当然と取らずにいた。
度胸がない、臆病者だと己を責めていた。
(私は、怖かったんだ)
目の前に広げていた両手で、顔を覆い隠す。
ぱたりと落ちた雫が、掌で跳ねて頬を濡らした。
「怖、かった…」
声に出す度に、そうだったのかと思い出す。
知らずに擦り減らしていた、心の断片を。
「怖かった、んです」
掌の中でくぐもる声が、震えた。