第23章 もの思へば 沢の蛍も 我が身より✔
杏寿郎の脳裏に浮かんだのは、正に今日この日の蛍の姿だった。
上弦の弐と出会い、逃れ。女郎としての自分に拭えない葛藤を抱えながら、ようやく己自身に目を向けていた。
「体は平気だと告げるから、動かせる足で進んでいく。だが君の心は、取り残されたままだ。…柚霧の心は、ずっとこの花街にあったのだろう?」
「…言ってる…意味が、よく、わかりません…」
「君の心はこの場に縫い付けられたままだった。だから俺にも、誰にも、打ち明けようとしなかったのではないかと。そう思うんだ。君の奥底を知ってしまった千寿郎にも、改めてその口から説明などしなかっただろう」
静かに戸惑いの表情を見せる柚霧は、本当に理解していないように見える。
それが既に答えだった。
心が追い付いていないのだ。
体ばかりが傷を負っては完治を繰り返し、強くなっていっていると思い込んだまま。
同じに傷付いていく心は、徐々に傷口を広げていったのだろう。
「柚霧の心は癒えていないのに、鬼の君は歩き続けるから。気付かぬうちに、ここを擦り減らしていくのだろうな…誰に知られることもなく」
柚霧の手を握り締めたまま、杏寿郎の手の甲が柔らかな胸の谷間に触れる。
「鬼の身体というのは、都合よくなどできていない。悪鬼ならば心を擦り減らすこともないかもしれないが、君は違う。この心は、この体のように傷付いても簡単に元通りになる訳ではないんだ」
且つては同胞だった人間を餌として喰らえてしまうなど、狂気の沙汰。
その時点で既に心そのものも悪鬼と化しているのだろう。
しかし蛍は違う。
「君の心は、鬼ではないのだから」
体は鬼でも、心は人そのものだと知っていたのに。
何故もっと早くそのことに気付けなかったのかと、杏寿郎は一人声を低めた。
「なのに俺も鍛錬では君を軽視し過ぎていたな…鬼なのだから、どれだけ傷を負ってもいずれは治るだろうと。すまなかった、もっと──」
柚霧の手を握る杏寿郎の手の甲に、ぽたりと何かが降り落ちる。
「──…」
息を呑む。
見えたのは、表情を作ることなく前を向いていた柚霧だった。
その瞳から、透明な雫を滑らせて。