第23章 もの思へば 沢の蛍も 我が身より✔
「ただその気持ちはあり難いが、俺は鬼の能力には興味がない。君の能力(ちから)として、惹かれるものはあるがな。俺自身には必要のないものだ」
「…人間、だから?」
「そうだ。俺は人のまま、鬼である君を愛した。本来なら手に入らないはずだったものを、今この腕に抱いている。それだけで十分なんだ」
蛍を人間に戻したいという、人としての彼女を欲する欲はある。
だが鬼としての彼女をそれ以上欲する気はなかった。
「大欲は無欲に似たり、と言うだろう?」
「たいよく?」
「欲を持ち過ぎると損をする、すなわち無欲と同等という意味だ。今手にしている大事なものを取り零したくはないからな」
「それは…わかるかもしれません」
「はは、そうか」
ゆるりと抱きしめたまま、杏寿郎は甘えるように細い肩に顔を乗せた。
「その脅威の再生能力は、確かに戦いに身を置く者としては魅力的だが」
「この体がなかったら、私は今此処にいませんしね。…便利だな、とは思います。なんとも都合のいい身体だと」
「便利、か…」
ふぅむ、と考え込むように杏寿郎の目線が天井を仰ぐ。
「…気を悪くしないで聞いてくれるか?」
「? はい」
「俺は…聊か、不都合なものだと思う」
膝に乗る掌を、下から掬い上げるように指を絡ませ握る。
白くきめ細やかな掌は傷の一つもない。
鬼となってからたゆまぬ鍛錬により、その身には沢山の傷を負ってきた。
時に骨を折り、筋を断ち、下半身を丸ごと失くしたこともある。
そんな痕跡など一つも残さず此処に在る柚霧の体は、神の御業と言える程の奇跡だ。
しかし杏寿郎の目には、そうは映らなかった。
「体が傷付くことは、心を傷付かせることと比例する。大なり小なり、何も負わないことなどない。だから時間が必要なのだと思う。体の傷を癒すことにも。心は、もっと時間がかかるものだから」
「……」
「だが君は、体の傷を一瞬で治してしまうだろう? 下手をすれば、痛みを痛みと知る前に。…だから時々ちぐはぐな気がするんだ」
「ちぐはぐ…?」
「心と体が噛み合っていない。健全な体で君が笑っていても、偶に…」
不意に言葉が途切れる。
杏寿郎自身、考えあぐねるように答えを絞り出した。
「心を、置き去りにしているような気がして」