第23章 もの思へば 沢の蛍も 我が身より✔
『柚霧と申します。今夜はご指名頂き、ありがとうございます』
襖の向こうから届く声は、蛍のようで蛍ではないようにも聞こえた。
師弟関係にあっても向けられたことのないような言葉遣いに、自然と杏寿郎の背も伸びる。
「うむ。入っておいで」
『失礼致します』
す、と音もなく襖が開く。
膝を付いた姿勢のまま、静かに部屋へと踏み入れた女が、再び襖を閉めてこちらへと向き合う。
女は、一枚の朱色の着物に身を包んでいた。
金の刺繍糸で描かれた扇の中には、蝶や花が散りばめられている。
鎖骨が見える程にはだけられた着物は、白い肌をより浮き立たせていた。
左右耳の後ろから編み込み一つにまとめられている髪は、小さな簪で心許なく留められている。
後れ毛を残す髪の隙間から、月光の反射で微かに光る扇型のビラ簪。
ゆらゆらと揺れるそれは女が身動ぐ度に、しゃりんと儚い音色を奏でた。
暗い瞳の目尻を飾る、薔薇の差し色。
舞妓の厄除けにも似て非なるそれは、女の流す視線をより色濃く魅せる。
唇には真っ赤な紅一匁(べにいちもんめ)。
襖の前で座する女と、窓際に座る杏寿郎。その距離でも唇の艶やかに濡れた様は感じ取れた。
「お初にお目にかかります。煉獄杏寿郎様」
静々と三つ指をついて頭を下げる。
それは杏寿郎の知らない女の姿だった。
「…ほたる…?」
「…柚霧、でございます」
「ぁ…ああ。すまない。柚霧、」
「はい。煉獄様」
「そんな堅苦しい呼び名でなくていい」
「杏寿郎様、でよろしいでしょうか」
「様は要らない。俺だって呼び捨ててるんだ」
「では…杏寿郎さん、と」
「…ふむ。ならば、それで」
言葉を交えても、蛍と話しているような感覚はなかった。
本当に、初めて顔を合わせた女と話しているようだ。
言葉遣いだけではない。
所作、視線、纏う雰囲気もまるで違うのだ。
似たような姿は京都で囮となる為に着飾った蛍が一度見せたことがあったが、あの時よりも段違いの色香を持っている。
「お隣、失礼します」
香も焚いていないのに、傍に座るだけでふわりと甘い香りが鼻孔をくすぐるようだ。