第23章 もの思へば 沢の蛍も 我が身より✔
哀愁でもなければ、歓喜でもない。
無表情に見えて憂いを残す蛍の横顔は、杏寿郎の知っている顔とはどこか違って見えた。
まるで自分の知らない人のように。
「ほ──」
そういう時は、決まって勝手に体が動いた。
咄嗟に出た手は、まるで引き止めるように蛍の腕や手を掴んでいた。
裏廊下で佇む蛍が、人の色をなぞって唱えていた時もそうだ。
華やかな街明かりに吸い込まれそうに見えたこともある。
しかしあの時、確かに感じた胸騒ぎは今と同じものだった。
瞬くような刹那の間。
一瞬息を止めてしまう程、蛍は変わるのだ。
空気と言えばいいのか、温度と言えばいいのか。
上手くは説明できない。
それでも目が釘付けになってしまう。
だから引き戻そうとするのか。
強烈に惹き付けるのに、当の本人は儚く今にも消えてしまいそうに見えるのだから。
(駄目だ)
数刻前と同じに伸ばしかけた手を、杏寿郎は握り締めた。
目は冴えた。
同じことを繰り返していては進めない。
「杏寿郎」
最初の一歩を踏み出したのは、思いもかけず蛍の方だった。
「私の先を、歩いてくれる?」
「しかし…」
「大丈夫。ちゃんと後ろをついて歩くから」
それでも一度、この人混みで蛍を見失った。
無言で渋る杏寿郎に、蛍は考え付いたようにぽんと手を叩くと、杏寿郎の着流しの袖の先をちょこんと握った。
「これでいい?」
「…決して離すんじゃないぞ」
「ふふ。わかりました」
緩やかに微笑む蛍に、仕方なしにと再び歩み出す。
前を向けば、視界に入らない後方の蛍へと意識が集中する。
くん、と僅かに引かれる袖の引力が、心許なくも恋しい。
「道草を食っていると、お松殿に怒られてしまうやもしれないな」
「大丈夫だよ。松風さんは、なんだかんだ言って面倒見の良い人だから」
「確かにそうだ。俺も世話になった」
「昔も、なんだかんだ小言言いながらも声をかけてくれたし。そうして構ってくれていたのは、松風さんくらいだったかも」
「それは、蛍が?」
「うん。人間だった頃の話」