第23章 もの思へば 沢の蛍も 我が身より✔
「俺だけじゃねぇよ。柚霧ちゃん、ここ見てみな」
一つの塔婆を指差す東屋に、蛍も目でそれを追う。
苔の生えた塔婆に比べれば、まだ真新しい。
その塔婆に記されていた名前は──
「…"柚霧"…」
見間違いではない。
それは確かに自身の源氏名だった。
「柚霧ちゃんのことを見てるのは、俺だけじゃねぇのさ。誰だか知らねぇが、忘れまいとしてくれている者はいる」
「……」
「柚霧ちゃんや菊葉ちゃんだけじゃねぇ。此処に住まう全ての遊女に、生きている意味はきっとちゃんとある」
「…本当に…?」
「ああ」
言葉の比喩ではない。
目の前に立つ全ての塔婆が、それを証明していた。
誰一人、飾り立てるだけの人形ではないのだ。
等しく全ての女郎に魂は在るのだと。
東屋の言う通りだ。
今まで、この花街で見ていたのは姉一人。
それ以外の者はどうでもよかった。
欲望の為に体を抱いていく男達も。
ただの駒としてしか見ない雇い主の男達も。
同じ水槽の中を泳ぐ他の女郎達も。
この花街に生きる人々、全てが。
(…東屋さん)
初めて、その眼を開いた。
(松風さん)
初めて、彼らの顔が視えた。
(女中さんや舞妓さん達、皆も)
千寿郎の為にと願う蛍の心を汲んでくれた、彼女達も。
皆、一様に人形ではない。
心を宿して生きている、人間なのだ。
「…お?」
優しく笑う東屋に、再び蛍の顔が俯く。
今度は涙を拭うような仕草はなかったが、その手は隣に立つ東屋の服の裾をそっと握っていた。
離すまいとするように。
「おお…柚霧ちゃんのことは割と知ったつもりだったが、甘えられたのは初めてかもしんねぇな…」
真面目であるような、不真面目であるような。どちらとも取れない口調で語る東屋に、すぅと深呼吸を一つ。
ゆっくりと顔を上げて、蛍はその目に映した。
「初めて〝ここ〟で息ができました」
目尻に皺を残す、垂れた瞳。
程良く焼けた肌に、白髪の混じる角刈りの頭。
口角が僅かに上がる癖のある口元。
「ありがとう。東屋さん」
優しい面影を残す男性のその顔を、初めて真っ直ぐに見つめられた気がしたのだ。