第23章 もの思へば 沢の蛍も 我が身より✔
「野暮なことをしちまったのも、あそこにいたのが柚霧だったからさ。あたいは慈善家じゃない。蛍なんて知らない町娘なんかに、自分の時間は使わないよ」
淡々と告げていた声を、吐息で止める。
東屋と並ぶ遠目の細い背は、一度も振り返らずに一心に姉だけを見ている。
松風のよく知っている、柚霧の背中だ。
「だからさ…分けておくれでないよ。名前をとっかえひっかえしたって、そいつが消えてなくなる訳じゃないんだ。花街に戻って、伏せていた柚霧の顔が出ただけだろう」
蛍に「松風」と呼ばれるのは、口では否定したが不思議と嫌ではなかった。
思い出なんて生易しいものではなくても、確かにあの時あの場所で、自分は生きていたのだと。
ちっぽけで狭い水槽のような世界の中でも、自分は確かに生きていたのだと。
主張の一つも許されなかった世界で、同じ存在である柚霧だけが認めてくれているような気がしたからだ。
「旦那にしか知らない顔を持っていて、あたいにしか知らない顔を持っている。ただそれだけのことさ。人間、生まれて死ぬまで全ての顔を誰かに晒せることはないだろう?…それだけのことさ」
蛍も柚霧も、どちらも生きてきた道なのだ。
「それでも、あの子はあの子だよ」
名前は消せても、存在は消せない。
(…蛍は、柚霧…)
沈黙を残したまま、杏寿郎は頭の中に言葉を刻み込んだ。
当然のことのようで、今までそうして呑み込んだことはなかった。
蛍は蛍だ。柚霧ではない。
そう、彼女を「柚霧」と呼ぶ実弥をばっさりと断ち切ったこともある。
(筋が通った者などではない。俺はただの狭量な男だ)
あれは自分の知らない蛍を知っていることに、嫉妬心を抱いただけの言動だった。
とても松風が褒めたような、できた男ではない。