第23章 もの思へば 沢の蛍も 我が身より✔
達筆な梵字(ぼんじ)に混じる、菊葉の名前。
口の中で含むように告げた蛍の声に、松風も声を沈めると思い出すように呟いた。
「そういや、東屋の旦那がこれを渡す際に言ってたよ。こんな形にしかできずごめんよってさ」
「っ…松風さん、東屋さんはいつ頃?」
「いつって、だからついさっき──…柚霧っ?」
「むっ」
「すみませんッ」
胸の前で姉の塔婆を抱きしめる。
松風に頭を下げ、杏寿郎に一度目を合わせると、蛍は慌てて駆け出した。
一目散に向かったのは、宿屋の玄関口だ。
「──東屋さん…ッ!」
「んあっ? 柚霧ちゃんっ?」
「待って下さいっこれ…!」
「あ、ああいや…えっ? それはお松っちゃんに…」
「はい、貰いました。松風さんに。東屋さんから渡されたって」
「え。いや。さっき渡したはずだが…」
名残惜しく振り返りながら、去ろうとしていた。
東屋のその腕を掴んで引き止めたのは、風のように現れた蛍だった。
玄関を出て暖簾を潜ろうとしていた矢先のことだ。
その些細な時間に、塔婆はもう蛍へと渡ったのか。
余りにも早過ぎる経緯に、東屋も思わず辺りを見渡してしまう。
「は…ッあんた、どんだけ速いんだよ…ッぜぃ…っ」
「お松っちゃん!」
「いきなり外に飛び出そうとするのは感心しないな! お松殿は大丈夫であられるか!」
「耳、元で、叫ぶんじゃないよ…今、息整えてんだから…っ」
ぜいはぁと息を切らしながら走って来た松風の姿を見るところ、やはり彼女に塔婆を渡したのは間違いないようだ。
反して涼しい顔で松風を労わる杏寿郎もまた、東屋の気付かぬうちに傍にいた。
「東屋さん、これ…こんな形でごめんって…」
しかし蛍だけは、周りの状況に目を向けることなく一心に東屋を縋るように見つめていた。
その腕には塔婆が抱かれている。