第23章 もの思へば 沢の蛍も 我が身より✔
「俺は、ただ君と──」
「ちょいと」
掴んだ手首を引き寄せて、一歩踏み出す。
杏寿郎の静かながら低い声をさらりと遮ったのは、棘のある声だった。
「そういうことは部屋ん中でしてくんないかい? 廊下(ここ)は従業員用の裏道だよ」
「…お松殿」
「ご、ごめんなさいっ」
腰に手を当てて仁王立ちしていたのは、じとりと睨み付けるようにして見る松風だった。
廊下の先から現れた松風に、目の前の蛍に意識を集中していた杏寿郎も一瞬反応に遅れた。
「料理の追加希望かい? それなら受付か厨房に行きな」
「いや、世間話をしていただけだ。邪魔をして申し訳ない。すぐにこの場から去ろう」
「そうかい。なら柚霧は待ちな」
「え?」
蛍の手首を握ったまま、軽く会釈して去ろうとする。
杏寿郎のその足を止めたのは、蛍を呼び止めた松風だった。
「なんですか?」
「丁度あんたに渡すもんがあるんだよ。ついさっき東屋の旦那が来ていてね」
「東屋さんが?」
呼びつけはするが歩み寄ろうとはしない松風に、蛍から足を向ける。
致し方なしと、杏寿郎は無言のまま手首を握っていた手を離した。
「ほら、これだよ。あんたに渡してくれって」
「なんですか? これ…」
「あたいだって知らないよ。見てないんだから」
「はぁ…」
松風から受け取ったのは、黒い布に包まれた細長い何か。
見当もつかない代物に、蛍は頸を傾げながら布を捲った。
「! これ…」
布の中から姿を見せたのは、薄く細長い木の板だった。
先端を緩やかな角をつけ尖らせた形状のそれには、達筆な筆で文字が記されている。
とある場所で、よく見かけるものだ。
「ああ。塔婆(とうば)だね」
塔婆とは、墓石の側に立てられている、細長い木の枝のことだ。
先祖や故人の供養が目的であり、そこに記されている文字は故人の名や命日、他にもお経などが記される場合もある。
蛍の手にした塔婆に記されていたのは、一人の故人の名前だった。
「…姉さん…」