第23章 もの思へば 沢の蛍も 我が身より✔
天女が舞い降りた、松原の春景色。
それは正に天界のような美しさだと讃え、天女自身も唄い舞う。
「"君が代は天の羽衣まれに来て、撫づとも尽きぬ巖ならなむ"──」
すると白龍が羽衣を見つけた時のように、何処からともなく笛の調べが、琴の音が、天女の舞に合わせて流れ出す。
「その舞姿は、雪が舞うような美しさだったと言います」
金箔の袖を揺らし、静々と宙に浮くように足を滑らせ、艶やかな羽衣と共に喜びに興じる。
それは人間には成しえない、天から与えられし舞だった。
「とても…とても、綺麗です…」
「…うむ。美しいな」
感嘆の息をつく千寿郎の膝の上の手に、そっと温もりが触れる。
同じく隣で一心に舞を観る杏寿郎が、小さな掌を握り締めていた。
「よもやこんな所で俺の願いが叶うとは」
優しく、包み込むように。
掌の温もりと共に告げる兄の言葉に、千寿郎は目を丸くした。
「母上が大層好いていた能楽だ。いつかお前と共に観に行こうと約束した」
「…ぉ…憶えて、いたんですか…?」
「忘れるはずがない。千との約束だぞ」
僅かながら、握り締める大きな掌に力がこもる。
それだけで十分だった。
『兄上。また母上の話を聞きたいです。母上の好きなものはなんでしたか?』
『そうだな…能楽が好きだと聞いた。若い頃はよく、父上と観に行っていたそうだ。特に何度も観ていたのは、羽衣という演目だったはず』
『わあ…僕もみたいですっ兄上はみたことがありますか?』
『俺も観たことがない。いつか一緒に観に行こう!』
母が好きだった舞だ。
稽古の合間に兄に母の話をせがんで聞いた、思い出の舞だ。
『無理ですよ…兄上は忙しいから。せめて僕も、兄上について任務に行けたらよかったのに…』
例え観に行けなくても、少しでもその舞の美しさを共有したくて。
物語や能装束や能面のことなど、こっそり一人で調べ上げていた。
あの舞なのだ。