第23章 もの思へば 沢の蛍も 我が身より✔
襖の奥から現れたのは能面を付けた女だった。
面長な〝面(おもて)〟と呼ばれる顔を取り付けた女は、真っ白な肌に左右に分けた黒い髪。薄い眉に細長の瞳、真っ赤な紅を差した唇の形状をしている。
能楽を知らない者でもそれだけは知っていると言える程の有名な仮面を顔に、足音もなくゆっくりと敷居を跨ぐ。
姿は、金箔(きんぱく)を連続文様に用いた清楚な白い能装束。反して艶やかな朱の小袖を腰巻にしている。
開いた鬘扇(かつらおうぎ)を手に、頭には天冠を模した煌びやかな幾重もの簪が飾り付けられていた。
先程の舞妓達とは異なる重厚さも感じるような美を前に、自然と天元達の背筋も伸びる。
「天女…」
その姿を目に、思わず小さな声で千寿郎が囁く。
声に誘われるように、面を向けた天女が広間の中心へと滑るように進んだ。
ひゅうろろろ、と篠笛(しのぶえ)が鳴く。
「"月の桂の身を分けて"──」
笛を鳴かせる女の傍で、謡が言の葉を乗せる。
唄う声に合わせて天女はゆらりと扇を揺らした。
「へえ。こりゃまた随分粋な芸事じゃねぇか。けど千坊には少し難しいんじゃ」
「一人の男と女の話です。男は人間、女は天女。羽衣は、天界へと帰る為に天女が舞を披露する美しいお話です」
天元の声をやんわりと遮り、じっと天女を見つめたまま千寿郎は淡々と話の内容を口にした。
男の名は白龍。
仕事の漁を終えての帰り際、虚空より花が降り音楽が聞こえ妙なる香りを鼻にする。
何事かと向かった先で見つけたのは大層美しい羽衣だった。
一目で心を奪われた白龍は、喜び衣を手に帰ろうとする。
そこへ美しい天女が現れ、その衣がないと天へと帰れないから返して欲しいと頼み込んだ。
天人の物ならば国の宝にしておくべきだと耳を貸さない白龍に、やがて天女は天界を思い幾重も涙を零す。
嘆くその姿に心を打たれた白龍が、衣を返す代わりにせめて天女の舞を見せてくれないかと頼むのだ。
「衣(ころも)を身に付けて舞う天女は、雨に濡れた花のような美しさだったと言います」
「なんだ千坊、随分と詳しいな。観たことがあるのか?」
「いいえ。一度も」
舞妓の舞を観ていた時のような、食い入る姿はない。
しかし一瞬足りとも舞から目を離すことなく、千寿郎は噛み締めた。
「初めて、観ました」