第23章 もの思へば 沢の蛍も 我が身より✔
「その演目ってのは?」
「羽衣です。元々は羽衣伝説を題材にした演目みたいで」
「へえ。詳しいじゃないか。あんた、月房屋では能や歌舞伎に興味なんて持ってなかっただろ。調べたのかい?」
「一応、自分にできることは…」
この花街の表向きには能楽堂もあるが、羽衣を演じているかは不明だ。
しかし店内の芸事でそれが可能ならば、千寿郎を喜ばせることができる。
あの少年らしい輝く眼を見て、悟ったのだ。
「けど生憎此処は芸小屋じゃないんでね。客を最高の食事と芸者でもてなす。それだけの店さ」
「…珍しいですね。花街の中心で、身売りをしない店なんて」
「周りは女郎の檻ばかりさ。こういう店は逆に異質で目立つだろう? お陰で稼がせてもらってるよ」
「…このお店にお客が多いのは、物珍しいからじゃありませんよ。千くん達を見ていればわかる。食事も芸事も、見栄えをよくする為じゃなくお客を第一に考えて作られているから。女中さんや舞妓さん達の顔は、誰も死んでいない。ちゃんと"生きている"顔をしている」
月房屋という狭い檻の中を共に知ってたからこそ、断言できた。
「松風さんが守っているのは、お店の中にいる全ての女性なんですね」
「…その名で呼ぶなと言っただろ」
「ごめんなさい、女将さん」
女将さん、と改めて呼ぶ蛍の声は柔らかい。
「…あんた、あの男と契りを結んだんだって? 山吹色の髪のあの男」
「え?」
反して細い松風の目が、蛍を値踏みするように見る。
すぐに杏寿郎のことだと察すると、蛍は俯いた。
その頬は薄らと赤い。
「なんだい、本当に男に現を抜かしたってのかい。あの柚霧が」
「……」
「健気に食事や身の周りの世話をしてるっていうのに、あの男は一度だってそれを止めてあんたにおまんまを食わせようとはしない。当然のように亭主関白気取りでさ。そんな男の為に、そこまでする必要あるのかい?」
「……千くんの、為なんです」
「せん?…弟の方かえ」
「千くんが、杏寿郎と過去に一度だけ約束したことなんです。一緒に、亡きお母さんが好きだった能楽の羽衣を観に行こうって」