第23章 もの思へば 沢の蛍も 我が身より✔
予想外の応えに、松風は思わず素っ頓狂な声を上げた。
驚きのままに目を剥く。
「許婚って、あんた、柚霧に家族は…」
「うむ?…そうだな。この場合は、婚約者と言う方が適切か」
親や家系が決めた婚約ではない。
それは関係ないと杏寿郎が頸を横に振れば、ようやく松風も納得したように胸を撫で下ろした。
「なんだい、吃驚させるんじゃないよ。…それでもあの子が伴侶の男を選ぶなんて驚きだけどさ」
「…お松殿は、彼女のことをよく知っているようだな」
「そうでもないよ。自分のことなんて早々語らない子だったからね」
「ふむ。確かに」
「おや。あんたの前でもそうなのかい?」
「少しずつ自分のことを語ってくれるようにはなったが。まだ踏み込ませて貰えないところもある」
「……ふぅん?」
「俺の顔に何かついているか?」
「いいや。悩みなんて無さそうな顔して、案外考え込む性質なのかと思ってね」
「…む」
「おっと。失礼だったかい?」
「いや…お松殿。よければ貴女の知っている蛍のことを、教えて頂けないだろうか」
「へえ? 昼間はあたいと柚霧の会話に不躾に入ろうとはしなかった男の台詞じゃあないねぇ」
「彼女の周りを根掘り葉掘り荒そうとは思ってない。話せる範囲でいいんだ」
「……」
「…ぁ…兄上…」
二人のやり取りを黙って聞いていた千寿郎が、一歩離れたところで一人そわそわと顔色を伺う。
曇りなき眼を持つ杏寿郎を見ていた松風は、徐に肩を竦めた。
「あたいが知っているのは柚霧のことだよ。蛍なんて知らないね」
「っそれは…」
「だからこの街に来たんじゃないのかい?」
「…それは、」
「知りたきゃ、あたいなんかに訊かずに周りに目を向けてみるといい。あんたなら自ずと見えてくるだろう?」
「……」
「それじゃ、あたいはもう行くよ。べべの請求は後でするから」
ちらりと浴場の戸を見て背を向ける松風に、千寿郎が頭を下げる。
無言で見送る杏寿郎は、普段なら押し通すところを吐き出せなかった言葉と共に呑み込んだ。