第21章 箱庭金魚✔
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──何も。
見覚えのない巨大な金魚も、千寿郎をも巻き込んだ影沼も、何も蛍には理解できなかった。
ただ此処から離れなければ。それだけを切に急いだ。
男への尽きない憎悪は残っている。
しかしそれ以上に、蛍の目の前を真っ暗にしたのは血に染まった千寿郎の姿だった。
この手で爪で傷付けて、恐怖を抱かせた。
鬼である自分を快く迎えてくれた、あんなにも大切にしたいと思った、家族になりたいとまで願った存在を。体だけでなく心まで傷付けた。
その事実に目の前が真っ暗になり、足元が崩れていくような感覚に襲われた。
取り返しのつかないことをしてしまった。
どうしようもない。どうにもできない。
千寿郎だけではない。
それはきっと杏寿郎の心も抉ったことだろう。
離れなければ。
千寿郎から。杏寿郎から。
もうこれ以上、誰も傷付けてしまわないように。
──ザァ…
陽がゆっくりと沈みゆく夕暮れ時。
薄暗くなる町並みで、一層暗い建物の隙間と隙間に黒い影の波が舞い上がった。
ざぷりと現れたのは、黒い土佐錦魚。
くるりとその場で体を回転させて長い尾鰭を翻すと、其処にはうずくまる蛍の姿が現れた。
現われはしたが、両膝を抱いて顔を埋めたまま動こうとしない。
影沼は消え去ったが、牛のように巨大だった土佐錦魚は大型犬程の姿に変えて残り続けていた。
きょろりと丸い目を動かして蛍を見つめる。
ぱくぱくと動く口には、もう鋭い牙はない。
「……なんで…」
顔を埋めたまま、くぐもる蛍の声が落ちる。
傍らで離れずにいる土佐錦魚に、蛍はゆっくりと顔を上げた。
「…なんで…"その"姿なの…」
己の影が、感情によって様々な姿に変わることは知っている。
それは波や沼のような形状から、蝶屋敷のなほ達を恐れさせた名も無い歪な形まで。
己の意志で形取ったものは数える程しかない。
目の前の土佐錦魚もまた、蛍が望んで生み出したものではなかった。