第21章 箱庭金魚✔
「…姉上」
「え?」
「って、もう呼んでくれないの?」
もそりと千寿郎の胸で上がる顔が、少しだけ不満を露わにする。
「凄く嬉しかったのに」
「あ…あれ、は…あの場の空気が居た堪れなくて…つい、出たというか」
静子の正論のようで棘ばかりある言葉を、聞いていたくなかったのも事実だ。
兄の上辺だけを見て全てを悟ったように語るなど、と。
心は冷えていたのに、蛍のどんどん蒼褪めていく顔を見た途端、胸の奥がかっと熱くなった。
日傘を取り落としそうになる手を咄嗟に握り締めて、その敬称で呼んでいたのだ。
自分が家族と呼びたい人は、此処にいる。
そう叫ぶように。
「私は、すごく、嬉しかったのにな」
「……」
「すごく」
「…っ」
「嬉しかった」
「…ぁ…ね、うえ」
じぃーっと見上げてくる瞳は、大人だというのにしょんぼりと寂しがる子供のようだ。
その視線に耐えかねて辿々しくも口にすれば、蛍の顔が途端に綻んだ。
「んふふ。うんっ」
まるで花が咲くような笑顔だと、尚の事千寿郎の頬が赤く染まる。
「じゃあ私も。千くん、って呼んでいいかな」
「千、ですか?」
「うん。さっき呼んだ時も、その響きがなんだかしっくりきたから。千くん」
「……」
「駄目?」
「あ、いえ。…昔、兄によく呼ばれていた愛称だったので。懐かしいな、と」
今も偶に呼ばれる。
その愛称を杏寿郎が口にするのは、ただ千寿郎の兄としてだけの顔を見せた時だ。
鬼殺隊に入隊しようとも、炎柱に昇任しようとも、唯一変わることのない自分だけの兄を感じられるその瞬間が、大好きだった。
「…私が呼んでも、いいかな…?」
「はい」
様子を伺うように問いかけてくる蛍に、笑顔で頷く。
「ぜひ」
兄一人だけだったものが、姉もできてしまうなど。
思いもかけない贈り物を貰ったような気分だ。
そんな千寿郎の笑顔に、つられて蛍にもほっとした笑顔が浮かぶ。
ふ、と。そんな二人の上に陰ができる。
見上げれば、掲げられた日傘が一つ。
椅子に置かれた日傘を二人の頭上に差していたのは、静子達の下へ残してきたはずの杏寿郎だった。