第20章 きみにより 思ひならひぬ 世の中の
「き、杏寿郎、御猪口が…ッ木っ端微塵!」
「問題ない。杯くらい幾つでもある」
「そういう問題じゃなくて。手、大丈夫っ? 切ってないっ?」
「問題ない」
ぽたぽたと残っていた清酒を掌から滴らせる杏寿郎に、慌ててその手を覗き込む。
見れば哀れ、猪口は外部からの圧力で粉々になっていた。
握力だけで陶器を割ろうとは。
流石柱内腕相撲三位の実力者である。
「よかった、手は切ってないね…でも折角の祝酒が」
「蛍」
ほっと息をつく蛍の顔の傍にある、酒に濡れた手が上がる。
ふっくらと色付く唇に触れる指先に、蛍の視線も上がる。
間近に見えた、月明りに照らされた顔。
それは眉間に皺を刻み、煮え切らない表情を浮かべていた。
(あ…この、顔)
初めて見た表情(かお)だった。
釘付けになる蛍の視線から逃れるように、先に目線を逸らしたのは杏寿郎。
いつもは穴が空きそうな程に直視してくる彼が、珍しいと思った。
「問題は、そこじゃない」
「…うん」
杏寿郎にとっては穏やかな心境ではないだろう。
(ごめん。杏寿郎)
反してその姿を見た蛍の心は、別のもので満たされる。
「でもね。気持ちいいって思えたのは…杏寿郎が、初めてだから」
酒で濡れた指先に、唇を寄せて。
恭しく口付けながら、そうと見上げた。
今度は重なった。
普段よりも尚見開いた、金輪の双眸と。
「嫌な気持ちにならなかったのも、杏寿郎が、初めて。私の体の、私も知らない感覚を引き出せるのは、杏寿郎なの」
舌に馴染む酒の味は、まるで体に炎を灯すようだった。
ワインを飲酒した時のような心地良さはないが、気持ち悪さもない。
「その手で暴かれたいと思うのは…杏寿郎、だけだから」
指先が触れた先を辿るように、杏寿郎の顔が下る。
月明りの中。顔に落としてくる影法師を受け止めて、蛍はそっと目を閉じた。
唇に熱。