第19章 徒花と羊の歩み✔
「ああ。蛍も、まさか父上と晩酌をしていようとはな。驚いた」
「私も自分に驚いた。まさか誘えるなんて」
「よもや蛍から誘ったのか」
「うん。槇寿郎さん、話すとちゃんと思いを返してくれたから。少しだけど、お話できたよ」
「…そうか」
優しい笑みを向けたまま、杏寿郎の手が蛍にかけられた父の羽織の上から触れる。
「これは父上の羽織だな」
「槇寿郎さんが貸してくれたの。最初は断りもしたんだけど。女である私を気遣ってくれて、使用人じゃない客人だって言ってくれた」
「父上が…」
涅色の羽織に触れる手は優しい。
水底に沈む泥のような、澱んだ黒色を示す涅色。
それと同じに澱み切っただけの思考ではない。
蛍を放ってはおけない人として扱う父の不器用な優しさを垣間見た気がして、杏寿郎の声にも感情の含みが増す。
「しかしまさか俺の目を盗んでワインを持ち出していたとはな」
「ぅ。」
それも束の間。
がしりと痛まない程度に肩を掴み直すと、綺麗な笑顔でにっこりと笑いかけた。
「ご、ごめんなさい…藤の香りで調子が出なくて。ワインを飲んでた方が落ち着くかなと…」
「ほう」
「すみません」
更ににっっこりと笑みを深める杏寿郎に、即座に蛍の頭が直角に下がる。
顔は潔いまでの笑顔だがその目が全く笑っていないのは百も承知だ。
「全く…君が口にできる唯一のものだから余り止めたくはないが。くれぐれも無理はしないでくれ」
「うん。…ごめん」
「もう謝らなくてもいい。そのお陰で父上と話すことができたのだろうし。体調はもういいのか?」
「うん。槇寿郎さんも気を遣ってくれたお陰で、落ち着いたかな」
借りた羽織の襟を握って笑う蛍に、杏寿郎の表情も柔らかなものへと戻る。
久方振りに見た父の他者への気遣いは、じんわりと杏寿郎の心も温かくさせた。