第19章 徒花と羊の歩み✔
ほろり、ほろりと、音もなく滑り落ちていく。
表情を作ることもなく、ただ前を見据えていた蛍の瞳から。
「…蛍、さん…」
「…ぁ…」
槇寿郎の動揺した顔に、初めて頬を濡らすものに気付いたように。指先を目元に当てて、蛍は俯いた。
「あれ…すみま、せん…」
「子を産むなとは言っていない。重く受け止めなくていい」
「…違う、んです。そうじゃ、なくて…」
「蛍さん」
「っ…すみません…」
ほろりほろりと、肌を滑る涙は止まらない。
止められないことに謝罪を零しながら、蛍は両手で顔を覆った。
くぐもる声はか細く、ぷつんと今にも途切れてしまいそうな響きをしていた。
思い出したように微かに震える小さな肩を、躊躇する槇寿郎の指先が触れる。
「…父上?」
ひたりと、一つの素足が廊下で止まる。
月の明かりが軒下に影を作り、その者の顔を覆っている。
しかし宵闇でも燃えるような金輪の双眸は、真っ直ぐにこちらを向いていた。
いつもは馴染む程に乗せていた笑みを、欠片も浮かべずにいる。
縁側の通路先に立っていたのは杏寿郎だった。
見知った父の焔色の髪に呼びかけた杏寿郎の声は、すぐに止まる。
槇寿郎の向かいに座る、顔を覆い俯いている女性に気付いた時。杏寿郎の手は、既にその華奢な肩に触れていた。
「申し訳ありませんが、父上」
蛍に触れようとした槇寿郎の指先から離すように、肩を掌で包む。
蛍と槇寿郎の間で片膝をつくと、必ずと向けていた笑みを消して父を見据えた。
「蛍に何を仰ったのですか」
はきはきと飛ばす快活な声ではない。
それでも静かに問う声には譲らない圧があった。
「…お前には関係のないことだ」
今まで見たことのない表情を向ける杏寿郎に、睨み返すように告げる槇寿郎の目に鋭さが戻る。
「お言葉ですが見過ごせません。俺には何を吐いても構いません。ですが蛍には──」
「杏、寿郎」
静かにぴんと張り詰める空気を止めたのは、か細い声だった。
「大丈夫。何も、ないよ」