第19章 徒花と羊の歩み✔
「だが…そうだな。此処にしかない千寿郎との時間があるように。此処にしかない蛍との時間がある。その時間も大切にしていたい」
不意に声の調子を落とすと、杏寿郎の表情も穏やかなものに変わりゆく。
それは千寿郎の知っているようで、知らない顔だった。
「今日は一日、千寿郎の兄でいようと決めた。だから明日は蛍の為にも、時間を使わせてくれないか?」
「もっ勿論、です。お二人の為の休暇なんですから」
「ありがとう」
にこりと笑う杏寿郎の手は、未だ小さな少年の手を握ったままだ。
その手をもじもじと見下ろして、千寿郎は言い難そうに小さな口を開いた。
「でも…蛍さんを一人にしてしまって、いいんですか? 鬼は夜が本調子だから、と俺も納得してしまいましたが…体調が良くないなら、兄上が傍にいた方が…」
「蛍は大丈夫と笑った。あれは建前だけの笑顔じゃない。それに追いかければ、千寿郎はどうしたと俺が怒られてしまう」
「…怒られる…」
「ああ」
「…だから、ですね」
「?」
「初めて会った時から、何故か蛍さんが蜜璃さんのようには見えなかった理由が、ようやくわかりました」
当然のように告げる杏寿郎の姿に、納得したように千寿郎が深く頷く。
師弟だけの関係ではない。
二人の間には、人でも鬼でも男でも女でもない。対等な立場があったのだ。
「信頼、しているんですね」
互いをよく知り得ているからこそ、信頼し任せられるのだと。何度も納得するように頷く千寿郎に、ぱちりと一つ瞬いた杏寿郎の瞳が、にっと笑う。
「うむ! それに今日は一日千寿郎の兄でいたいと言っただろう。そらっもう少し千を堪能させてくれ!」
「わぁっ」
ぐいと繋いだ手を引くと、小さな体を抱きとめてごろりと布団に寝転がる。
「兄上、そんな子供みたいな…あはは! そ、それ、くすぐったい…!」
「剣の捌きだけでなく、体幹も鍛えねばな! 立派な男子になれないぞ!」
尤もなことを言いながら、絡む杏寿郎は兄の顔でじゃれているだけだ。
きゃあきゃあとくすぐったそうに笑い声を上げる千寿郎に、杏寿郎の笑い声も重なる。
賑やかな二つの空気は、温かい風に運ばれるように深い夜空へと吸い込まれていった。