第19章 徒花と羊の歩み✔
「──千寿郎くんっ」
「蛍さん…?」
廊下を歩いていた小さな体が、振り返る。
暗い廊下で蛍の姿を確認した途端に慌てた。
「だ、駄目ですよ私に近付いたらっまた気分が悪くなってしまいます…!」
「うん、それは大丈ぅぷ」
「大丈夫じゃないですね!?」
近付けば、鼻を突く藤の香り。
うぷりと嗚咽する口を蛍が手で押さえれば、千寿郎の顔が青くなる。
わたわたと忙しなく動く小さな両手は、蝋燭と蚊帳で塞がっている。
「それ、何?」
「あっ」
それを好機とばかりに、蛍は千寿郎の脇に挟まれていた書物をひょいと抜き取った。
「…本草、図譜?」
「あ。いや。それは…っ」
しげしげと眺める表紙には、一凛の鮮やかな赤い花が描かれている。
本草図譜(ほんぞうずふ)と表紙の名を読み上げるも、蛍の耳には馴染まない言葉だった。
「何? 図譜って。中身、見てもいい?」
真新しい肌触りのページを捲れば、ぱらぱらと跳ねる白い世界に色とりどりの花や植物が浮かぶ。
「(あ。これってもしかして…)…図鑑?」
様々な植物の種類を、図と共に載せた専門の書物。
ぴんときて顔を上げれば、千寿郎は小さな頭をこくりと頷かせた。
「植物図鑑のことだよね。本草図譜なんて言うんだ」
「それは…古い昔の図鑑の、復刻版ですから」
「へえ。千寿郎くんが買ったの?」
「いえ。兄に」
「杏寿郎?」
頷いたまま俯いていた顔が、僅かに上がる。
幼い瞳が辺りを彷徨う様は、まるで応えを迷うかのようにも見えた。
「…兄上がくれたお土産の中に、入っていたんです。前に…僕が、兄上に話したことのある、図鑑で…」
「……」
「中々僕も見つけられなくて…だから、吃驚して……その…」
「…うん」
ぽそぽそと小さな声で伝えてくる千寿郎の思いは、皆まで聞かずとも十分だった。ぱたりと静かに図譜を閉じて、蛍の口元で弧を描く。
「だから杏寿郎の部屋に来たんだね」
高なる喜びを伝えたかったのか、共有したかったのか。
理由はなんであれ、千寿郎があの部屋の襖を叩いたのは、蚊帳を届ける為ではない。