第19章 徒花と羊の歩み✔
──トン、トン
「「!」」
色欲と嫉妬と困惑と緊張。
入り混じった空気がその場に張り詰めた時、流れを断ち切るように襖の外から声が響いた。
『兄上。千寿郎です。起きていますか?』
「っ、ぁ…千、寿郎くん…」
襖の外にほんのりと灯りが宿っている。
何故弟の気配をすぐそこまで気付けなかったのかと思いもしたが、それよりも慌てて腕の中から這い出る蛍に目が向いた。
「ま、待って。今行く」
『蛍さんもご一緒だったんですね』
「うん。なぁに?」
急いで乱れた浴衣と髪を直しながら、蛍は深呼吸を一つして襖を開けた。
小さな蝋燭の灯りを手に廊下に立っていた千寿郎は、もう一つの手に何やら丸めた網を抱えていた。
「まだこの季節は蚊が入ってくることもありますから。念の為に、蚊帳をと」
「そっか、ありが──」
太い眉を下げながら優しい笑みを向けてくる千寿郎を見ていると、なんだかほっとした。
しかし笑顔で受け取ろうと手を伸ばした蛍の頭が、くらりと唐突に揺れる。
「っ…?」
まるで腹を殴られたかのように、急激な嘔吐感が競り上がった。
「…蛍さん?」
(こ、れ…藤の、花?)
感覚に身に覚えはあった。
匂いは人間の頃と変わらないのに、まるで異臭の如く蛍の胸を突き頭を揺らしてくるもの。
紛れもなく藤花の香りだ。
「千…っくん、それ…藤の、匂い…」
「あっ」
口と鼻を片手で押さえどうにか告げれば、はっとした千寿郎の眉がより下がる。
「す、すみません…っいつも夜は藤のお香を焚いていたので、習慣で…大丈夫ですかっ」
「ん、うん」
正直、大丈夫ではない。
千寿郎の部屋で焚いてきたのだろう、その匂いがまるで小さな体を守っているようだった。
流石、代々炎柱を継いできた家系だと感心しながらも、蛍は力なく笑顔を向けた。
「蛍。千寿郎」
「…ぁ」
「兄上」
力なく後退る蛍の肩に、触れる大きな手。
支えるようにぐっと力を入れる手に、びくりと蛍の顔が上がる。