第19章 徒花と羊の歩み✔
涙は雫となって零れ落ちはしなかった。
ほんの少しだけ蛍の目尻を濡らし、肌を冷やす。
それでも胸を鷲掴み、嗚咽を耐えるように蛍は声を殺した。
叫びたくなる気持ちを抑えて、紡いだのは愛しい人の名だけ。
「…君を鬼としてではなく、人であった蛍のまま、俺の下に届けてくれたのは姉君だ。彼女には、感謝してもし切れない」
その震える肩を、強張る背中を、太い腕が柔く抱きしめる。
抱き寄せて寄り添って、体温を分かち合った。
「全てひとえに俺の都合の良い解釈かもしれないがな」
くしゃりと表情を崩して笑う。
杏寿郎の破顔で緩む空気に、蛍は噛み締めていた口元の力を抜いた。
「……都合よく…生きていても、いいかな…」
ぽつりと、落ちる。
「姉さんの、命と一緒に…姉さんの、想いも、ぜんぶ、貰ったんだって。都合よく…生きていても、いいかな」
俯いたまま、しかしその手は杏寿郎の袖を離すまいと握りしめていた。
幼子が願うような儚い声に、杏寿郎の目が緩やかに細まる。
「君の姉君は死して尚、人としての君を守った。それは偽りでも幻でもない、絶え間ない愛がそこに在った結果だ。…父上と同じ、大きな愛を持ったひとなのだと思う」
袖を握る手に手を添えて。
腕の中の細い体を、優しく包み込んだ。
「その愛を受け取ったのは君だ。その体の内に在る感情は、如何なるものも全て君のものだ。…蛍がそう感じたのならば、それでいい」
体を包む体温。
陽だまりに包まれているような穏やかな空気の中で、蛍はそっと瞳を閉じた。
『ねぇさん、ねぇさん』
『なぁに? 蛍ちゃん。そんなにくっ付いていたら、ご飯が作れないわ』
いつの頃だったか。
もう思い出せはしない。
それでも蛍の中に残り続けている、優しい陽だまりの中で交わした記憶。
『ねぇさん、だいすき』
『あら…私もよ。可愛い蛍ちゃんが、世界で一番大好きで、世界で一番大切よ』
『わたしも! ねぇさんがいちばん!』
『ふふ。じゃあ両想いなのねぇ』
いつかのあの日、あの時に。
交わした愛は、一生忘れはしないものだ。
「──…うん」