第19章 徒花と羊の歩み✔
とくりと、ほのかな音を立てて。
「…ん」
伏せていた顔を上げると、もそもそと目の前の広い腕の中に身を預ける。
硬い机ではなく、温かい胸にぽふんと頬を押し付けた。
耳を澄ませば、とくりとくりと感じる心音。
安心すると同時に、蛍の胸に火を灯す音だ。
「…このおうち、千寿郎くんの色で溢れてるのに…」
「ん?」
「この部屋は杏寿郎でいっぱいな気がする」
包むように優しく束縛する腕が、頭を撫でてくる大きな手が、心地良い。
そのまま身を寄せて、蛍は部屋を瞳に映した。
年季の入った文机も、身長の跡が刻まれた柱も、褪せた色の畳も。
何処を見ても、太陽のような温かさを感じる。
「此処は柱となるまで俺が使っていた部屋だからな」
「杏寿郎の部屋?」
「うむ。この机で勉学に勤しみ、あの柱で成長を刻み、この部屋で就寝した。…ここだけはいつ帰ってきても昔のままだ。何も変わっていない」
懐かしむように部屋を見渡す杏寿郎の横顔を、ちらりと見上げる。
柱用の炎柱邸では、隊服と羽織を脱いでも顔が変わることなどなかったのに。
見つめるその横顔は、蛍の知らない表情に見えた。
本人が言っていたように、柱としてではなく煉獄家の一男子として此処にいるからなのだろうか。
(…私が知らない時を生きた、杏寿郎)
触れたいと思っても触れられなかった、煉獄家で育った過去の杏寿郎。
その姿を見ているのだと、その姿に触れられているのだと思えば、火を灯した胸は尚熱くなった。
「ね。杏寿郎の話も色々聞かせてくれる?」
「俺の話か?」
「うん。此処で育った時のお話」
「…君は本当にその話が好きだな」
煉獄家での話を聞いたのは一度や二度ではない。
それでも彼の話を聞くのが好きだった。
母が健在で家族が皆温かった頃の話も、死と哀しみに貫かれたその後の話も。
どんな話であれ、それが杏寿郎の生きた軌跡なのだからと。
頬を緩め強請る蛍に、部屋を見渡していた杏寿郎が優しく微笑みかける。
「ならば俺も、蛍の話が聞きたい」
「え?」