第19章 徒花と羊の歩み✔
「ううむ…そこが問題だな…」
杏寿郎にもその理性は残っていたのか、等しく眉を寄せて言い淀む。
だからと言って簡単に手放せる熱でもない。
「……では、"此処"でなければいいか?」
「え?」
濡れた唇に艶やかに引いたままの銀糸。
今一度塞ぎたくなる衝動を止めて、杏寿郎は親指の腹で優しくそれを拭い取った。
「今宵、皆が寝静まった後。君を連れ出したい」
「…っ」
何処に、などと訊くまでもなかった。
更に頬を色付かせると、こくんと頷く。
蛍のそんな些細な反応一つで、浅ましくも求める心は満たされるのだ。
ただ欲は消え去った訳ではない。
寧ろ更に身を焦がすような想いが溢れる。
せめてもと名残惜しさを埋めるように今一度顔を寄せる。
もう一度だけ、その柔らかな唇を味わいたかった。
見つめる眼差しに、顎に添えられる手。
杏寿郎の意図を汲んだように、蛍もまた瞳を閉じる。
惹かれ合うように、互いの熱が触れ合った──
「兄上、蛍さんっお待たせし…どうされました?」
「どうもしていないが!?」
「お、おぉ!おかえり千寿郎くん! 怪我はしてないかな!?」
「? はい、大丈夫です…」
走って戻ってきたのか。ひょこりと唐突に部屋に現れた千寿郎に、物の見事に空気は壊された。
いち早く気付いた杏寿郎が、千寿郎が覗く前にと蛍の体をぐるりと反転させる。
体全体で出迎えるように両腕を広げた蛍に、千寿郎は不思議そうに頸を傾げた。
「さ、湯浴みと食事にしましょう。兄上、着替えは全て洗濯籠へ入れておいてくださいね。蛍さんも」
「うむ、千寿郎の夕餉か! 久しいな! 楽しみだ!」
「うん。私も手伝うよ。料理なら少しは」
「いいえ、蛍さんはお客様なので。すぐにお湯を沸かしますから、ゆっくり湯浴みなさってください」
「え、一番風呂? 無理無理、それは槇寿郎さんじゃ…っ」
「問題ないです。兄上が帰省された日は、いつも父上は遅くに一人で湯浴みされますから」
「恐らく俺の為に風呂を開けて下さっているのだと思う。ありがたい!」
「そうなんだ…?」