第19章 徒花と羊の歩み✔
頷く杏寿郎に、ほっと蛍の肩が下がる。
「…じゃないといつか杏寿郎の顔が目も当てられない程ぼこぼこになる…」
「よもや。そこまで俺も父上を逆上させる気はないぞ?」
「そうだろうけど。でも、杏寿郎が擬態をしろって言った意味がよくわかった…」
明後日の方角を見つめる蛍の姿は、杏寿郎の見慣れた鬼の片鱗を残す姿ではない。
緋色の縦に割れた瞳は今は人と同じ黒目であり、鋭い牙も爪もない。
煉獄家の敷居を跨ぐ前に、杏寿郎が蛍に頼んだこと。それは〝人〟に擬態することだった。
『なんで擬態するの? 女中さんでもいる?』
『いや。以前はいたが、母を亡くしてからは父上が他人を家に入れることを拒絶するようになってな。それ以来うちには父と弟の二人だけだ』
『え…そ、それ私がお邪魔してもいいのかな…?』
『蛍は俺の継子だ。甘露寺も昔はよくうちに上がっていた。そこは問題ないだろう』
『そうなの? なら擬態なんてしなくても、二人共私が鬼だって』
『父は知らない』
『えっ』
『千寿郎には事前に文で伝えられたが…父には、流石に文字では伝えられなかった。家を見ることなく門前払いを喰らいそうでな』
『帰り着く前に追い返されるって。原理が可笑しい』
『そういう父だ。ちなみに酒を片手に鬼を斬ることもできるぞ』
『ひぇ…何それ怖い…鬼斬りが酒の肴ですか怖い…』
『はは! それだけ豪快且つ強い剣士だということだ』
『いやいや。鬼からすれば怖過ぎるから。酔っ払って殺しに来るなんてどこの通り魔! 酒は飲んでも呑まれるな!』
『はははは! 確かに!』
顔を青くしてまともなことを叫ぶ蛍が鬼で、酒を手に刃を振るっていた槇寿郎が且つて慕われた柱で。
そのちぐはぐさに思わず声を上げて笑ってしまったが、自分の判断はやはり間違っていなかったと杏寿郎は胸を撫で下ろした。
蛍を娶る話だけでああも拗れたのだ。
蛍が鬼だと知れば、会話も成り立たなかっただろう。
「時間をかけよう。折を見て、いずれきちんと俺から話す。父上は用がない限りほとんど部屋から出ないため心配はないと思うが、それまで気を付けておいてくれ」
「了解」