第18章 蛹のはばたき✔
「あんさん、勧進帳知らへんの?」
「は、はい。すみません、今まで歌舞伎に触れたことがなくて…」
「謝らんでええよ。ほな初歌舞伎やねえ」
「源義経と武蔵坊弁慶は知ってはる?」
「名前くらいなら、聞いたことが」
杏寿郎には眉を顰めていたものの、同じ客同士だからか。頭を下げる蛍には、やんわりと笑顔を向けてきた。
源 義経(みなもとの よしつね)は平安時代末期の武将である。
牛若丸(うしわかまる)という幼名を持つ彼が、武蔵坊 弁慶(むさしぼう べんけい)と京の五条大橋で対峙するのは有名な話。
千本の刀を集める為に武者狩りをしていた弁慶が、その千本目にして出会ったのが牛若丸である。
五条大橋の上で般若のように暴れる弁慶を颯爽といなし、返り討ちにした牛若丸。
その強さを認めた弁慶は、その後心を改め牛若丸に仕えたという。
「ほな大丈夫やね。勧進帳は義経達が兄の源 頼朝(みなもとの よりとも)の怒りを買って、逃げるところから始まるお話なんよ」
「富樫左衛門(とがしのさえもん)は関守の役人でなあ。その関所を無事に弁慶が通り切れるかどうかいう話なんや」
「成程…ご説明、ありがとうございます」
「なんもわからんと話もついてけへんしね」
「それだけ知っとったら演目も楽しめはるよ」
「うむ。手解き感謝します!(俺もそう言おうとしていたところだが!)」
「お兄はんは余計なことまで喋りはりそうやし」
「折角の初歌舞伎なんやし、お嬢はんが楽しめる余裕持たせんと」
「ううむ…肝に銘じておこう」
まるで心を読むが如く。手厳しくもやんわり忠告され、杏寿郎は素直に吞み込んだ。
好きであるが故に、つい語ってしまう自覚はある。
それにより蛍の楽しみが半減してしまうことは杏寿郎も望んでいない。
突如、ポォン!と堤太鼓が劇場に鳴り響いた。
はっとするような音響に客達のざわめきが止まる。
ポン、ポン、ポン…と、堤太鼓の音響が感覚を狭めて鳴り響いていく。
やがて大きな定式幕が、ゆっくりと右へ引かれ始めた。
するすると音もなく流れていく幕に、広い舞台に現れたのは真っ赤な雛壇。
二段に構成された長い雛壇に並び座っているのは、太鼓や笛や三味線を手にした演奏者達。
二十人余りもの奏者を並べ、舞台は幕を開けた。