第18章 蛹のはばたき✔
いくら信頼に置ける杏寿郎でも、炭治郎と密かに契約している珠世のことを軽率には話せない。
唇を結んだまま、蛍は逃がした視線を屋形船の屋根へと向けた。
「…吐き出さずには、済んだのにな…」
それでも思わず漏れた本音は、名残惜しさ故か。
「それだけでも大きな一歩だ。君があそこで断らなかったから、あの御夫妻も笑顔で見送れた」
「美味しかったのは、本当だから」
「味がわかるのか?」
「わかるよ。匂いも、味も」
懐かしい味がした。
鬼となってからは一度も口にしなかった味だ。
たった一口、甘いシロップがけの氷を味わっただけ。
それでも蛍にとっては、一瞬でも人であった頃の自分に戻れるような気がするのだ。
例え体は受け付けなくても、きっと心では求めているもの。
「だから食べられなくても、感じるのは…好き、かな。杏寿郎の、食べる姿も」
ようやく視線を真上にある杏寿郎へと戻せば、静かに見つめてくる双眸と視線が重なった。
「でもまさか、アイスクリンにカキ氷まで食べるなんて。私より具合悪くなっても可笑しくないのに」
「どれも美味かったからな!」
「ふふ。うん、見てて凄く伝わった。本当に美味しそうに食べるよね」
くすくすとほのかに笑う蛍の姿に、杏寿郎の表情もほのかに安堵の色を宿す。
眉尻を下げ笑うと、何かを思い出すように視線を流した。
「だが俺も一時期"食"というものを受け付けられなくなった時があってな」
「そんなこと、あったの?」
「鬼殺隊として、煉獄の名を掲げる者として、ただ我武者羅に鬼を滅し続けていた幼い頃に」
「新人剣士だった頃?」
「階級が戊(つちのえ)に上がった頃だったな。それでも自分が求める所には程遠くて、体が動かなくなるまで毎日己を扱き上げていた」
元々杏寿郎を剣士として未来の炎柱として、指導していたのは父である槇寿郎だった。
父がその指導を放棄して背を向けるようになってからは、己の身一つで成り上がり続けた。
己と己を信じた母の思いを心に、煉獄家に代々伝わる〝歴代炎柱の書〟にさえも触れず、三巻しか存在しない炎の呼吸の指南書を読み込み独自で呼吸を身に付けた。
それでも「無知は罪」と言葉があるように、そのひたむきさは後々杏寿郎の身体を蝕んだのだ。