第16章 初任務《壱》
眉間に入れていた力が抜けゆく。
僅かにでも刻んだ笑みをそのままに口を開いた。
「己の全てを否定されることも、全てを肯定されることも、慣れたものだと思っていたんだが…不思議だな。君のその幼い声に、かつての母に告げられた言葉を垣間見た」
「…おかあさん?」
「ああ。告げた言葉の意味も感情もまるで違うのに。君が、俺の母に酷使している訳でもないのに」
母──瑠火(るか)のことを、杏寿郎は母としても人としても、心の底から尊敬していた。
しかし蛍に母の姿を重ねたから彼女を慕ったのではない。
鬼である前に、蛍のような女性とは今まで出会ったことはない。
なのに何故か、あの日のことを思い出したのだ。
『杏寿郎。こちらへ』
小暑(しょうしょ)のあの日。
母に呼ばれ、二人だけで向き合った日のことを。
「おかあさんと…どんなおはなし、したの?」
「…俺の歩みゆく道となる話だ」
愛情を沢山与えてくれたが、等しく厳しくもあった母。
その温かい腕に抱かれたのも、その優しい胸に甘えたのも、あの日が最後だった。
「あの時、自制できず零した感情があった。母の前では、いかに背伸びしようとも俺はただの子供だ。…それと同じに、君の前でも零してしまったらしい」
どちらとも取れなかった眉が力無く下がる。
深まる口角に、ようやく杏寿郎がどんな感情を秘めているのか。蛍にも感じ取ることができた。
「不甲斐ないな」
「…そんなこといわないで」
声が、瞳が、震える。
「わたしは、そのこころにふれたいの。わるいことなんかじゃないから。ふがいなくなんか、ない」
小さかった掌がゆっくりとその指を伸ばす。
幼く丸い団栗のような瞳が、長い睫毛を添えた瞳へと変わる。
しなやかに伸びる髪。
着物の袖から覗く四肢。
密着する程に狭まる空間。
それでも本来の姿へと移り変わった蛍は、拙くはない声で想いを口にした。
「…前に言ったよね。せめて両腕いっぱい抱えられるくらい、人を信じられるようになりたいって」
添えるだけだった両手で、その顔を包み込む。
額を重ね合わせて、ただひとりに想い馳せた。
「それでも私が誰より、信じて、抱きしめていたいひとは…ここに、いるから」