第10章 生殺与奪
「ッだ・・・ッ、止め、傷に響く」
細長い手で額をピシャリと打たれて牡蠣殻が体を退く。急に動いてまたあちこちが痛んだらしく、顔を歪めて一本欠けた歯を食い縛った。
「お子ではない。名がある」
牡蠣殻の袷の前をはだけて、千切れた徳利首を鋏で裁ちながら海士仁が微笑する。何時もの切り込みような皮肉さのない形で口角が上がった。
「ヒトヒラ。一平だ」
濡らした手拭いで傷口をふかれ、痛い筈なのに痛みなど感じる事なく牡蠣殻は半口を開けた。
磯では男子の名に平と付けてヒラと読ませるのが一般的だ。浮輪波平しかり、・・・・・深水一平しかり。
ヒトヒラ。二人の師の名前だ。
「泣くと小鬼のような形相になるが、頑健な男子だ。賢く堅実な男になろう。父親譲りで少々野暮かも知れぬが、そこは仕方あるまい」
穏やかに語る海士仁を凝視して牡蠣殻は言葉もない。
その顔を覗き込んで海士仁はまた笑った。
「そういう事だ。大事に育てているよ。可愛い赤子だ」
「・・・・海士仁」
鼻が痛くなって、気付くと頬が濡れていた。喉や肺が縮こまったようにキュウキュウと苦しかったが、不思議に不快ではない。
「泣くな。傷に染みる」
「あ・・杏可也さんは何て?」
鼻を啜りながら訊ねる牡蠣殻に、海士仁は首を振った。
「何とも。ただ可愛がっている。・・・俺もそうだ」
「・・・そう。・・・そうか・・・」
「逃げるのを止めて正道に立ち帰ればお前は俺を殺したくなるかも知れん」
牡蠣殻は口を引き結んで考え込んだ。
「・・・わからない・・・」
「それは構わぬ。俺も簡単に殺られる気はない」
「・・・・・私が簡単にお前を殺せる訳ないでしょう」
「そうだろうな。しかし気持ちと言うものは理屈ではない。簡単ではないからと言って変節する道理はないだろう」
拭き清めた傷を改めて海士仁は頷いた。
「巧く避けたな。長いが浅い。縫わぬですむ。昔から波平とお前は兎に角身ごなしが速かった。特にも逃げ足が。失せずとも十分逃げ巧者だ」
「いちいち言わなくていいでしょうよ。そんな事」
「フ。・・・・・お前が俺を殺したくなっても、それは一平には関わりない事。磯辺、この一点だけは譲れない。一平を心に懸けてやってくれ。頼む」
「そんなの・・・」
言われるまでもない。