第9章 闇夜
抱き締められたように思った。感覚が遠く、定かではない。
幼い頃、二親に置いていかれたときの抱擁を思い出す。思えばあの時、大切なものを遠くに置く術を覚えたのだ。
遠く。
大事なものは遠くへ。
・・・遠く?・・・・え?・・・・駄目だろ?厭だ。
反射的に抱き締めてくれた何かにしがみついた。
腕を回しきれない大きな背中がギュッと力んだ。身を引かれた感触に必死にむしゃぶりつくと、一度離れかけたように思った温みがきつく抱き締めながら覆い被さってきた。
苦しい。安心する。
怖い。恋しい。
深く息を吸い込んで、牡蠣殻は広い胸に顔を埋めた。
僅かに雲が切れ、ほんの一瞬月灯りが差した。上げる気もなかった頭をぐっと押さえつけられる。
見ないよ。見ないから、誰だかわからない。だから、逃げる必要もない。
また厚い雲が月を隠した。
行き場のない自分もあの月のように隠れられればいいのにと思った。泣きたくなっているのに気付いて驚いた。自分でもいつ出るかわからない涙は、泣きたい気持ちを伴って溢れた事がない。
そうか。こんなときに泣けばいいのか。
でもこんなときに限って涙は出ない。牡蠣殻はキツく目を瞑って、抱き付いた腕に精一杯の力を込めた。
厚い胸が上下して、深い呼気が伝わって来た。思いがけない程優しい手が、頭を撫でてくれる。
だから、牡蠣殻もひどく優しくその額を撫で返した。
手を捕られた。掌に唇が触れる。
手を捕る。掌に唇を寄せる。
大きな手が、膏薬の上から傷をなぞった。痛い。思わず口を引き結べば、掌で傷ごと頬を包まれる。
吐息が洩れた。安心する。怖い。逃げたい。逃げたい。・・・・恋しい・・・。
掌が顎に滑り降りて顔を持ち上げた。抗いかけて引き寄せられ、力が抜ける。
貴方は怒ってるんだろ?また私は逃げたものな。なのに何で優しく触れたりするんだ?
私も私で何で黙って抱かれてる?逃げたくせに。
恋慣れた気配が近づいて、寸の間留まり、唇が重なった。