第20章 杏可也、そして牡蠣殻。
墨を含んだ筆でひと撫でしたような細い目を優しく牡蠣殻に流して、杏可也はそっと息を吐いた。
磯辺も深水のように消えて失せるのかしら…
そうなれば何と不憫なことか。
波平も牡蠣殻も、小面憎い干柿でさえ哀れに思われる。
人が死ぬのは哀しい。二度と会えないと思えば惜しくない命はない。
しかし人は呆気なく死ぬものでもある。そこに惜しい惜しくないなどという斟酌は微塵もない。
仕方がないのだ。死は不意に、そして何の意図もなくただやって来る。死そのものに罪はない。そして意味もない。
そうでなくては人の命まで載せた秤に分銅を振り分ける事など出来ない。
「…呑め」
海士仁が牡蠣殻に薬包を突き付けた。
「増血剤だ」
「要りませんよ。この人が持参しています」
鬼鮫が前に出て、答えを促すように牡蠣殻を顧みる。
「いえ、確かに持参してはいますが、それも有り難く頂きます。幾らあっても困るものではありませんから」
腰の鞄から似たような紙包みを出して見せたものの、牡蠣殻は腕を伸ばして海士仁の細い指先から薬包を受け取った。
杏可也は瞬きもせずそのやり取りを見守った。
さあ、呑みなさいな、磯辺。
薬は呑み慣れたものでしょう?
意識がなくとも深水の手から薬を呑み下していたあなたですものね。そんな小さな薬包一服、何という事もないでしょう?
そこで思いがけず肩に手がかけられて、杏可也はハッと振り返った。
「…杏可也…わちはこれからどうしたらいい…?」
青い顔を泣き濡らした伊草が呆然と杏可也を見下ろしている。
「為蛍兄が死んで、わちはどうしたらよかろうか?里にわちの居所はなくなってしまうのではないかえ?」
そのまま茫洋としていればそうなるでしょうよ。けれど安心なさいな。私があなたを草の君主にしてあげるから。与し易くて可愛い伊草。
首を振って杏可也は牡蠣殻に視線を戻した。
丁度牡蠣殻が薬を呑み下したところ。
杏可也の紅い唇が弛んだ。
両の手を脇に垂らした鬼鮫が唖然として牡蠣殻を見ている。
杏可也は嫋やかに袖口で口元を隠して笑った。
私の勝ち。