第20章 杏可也、そして牡蠣殻。
「…草の長殿をお助けするには間に合わなかったようですね」
伊草の泣き声に耳を澄ましながら牡蠣殻がポツリと呟いた。
間に合う訳がない。そうならないだけの量を計って呑ませたのだから。
「拝謁する機会もなくお顔すら存じあげませんが、本意ない事です」
「悔悟の念は誰しも同じ。殿は最早戻りません。今は淑妃を生かすのが先決、悔むのはその後の事」
背筋を伸ばして告げた杏可也を、牡蠣殻がじっと身詰めた。
いつの間にか、牡蠣殻の斜め後ろに干柿鬼鮫が立っていた。心持ち体を横向きに、目だけは正面の杏可也を見据えている。
海士仁が器具の支度をするカタカタいう音と、芙蓉の忙しない息遣いだけが室を静かに掻き乱す。
「私は」
不意に牡蠣殻がにこっと笑った。
牡蠣殻の見慣れない人懐こい笑顔に、杏可也は内心たじろぐ。
「私は貴女を何とお呼びしたら良いのでしょう」
鬼鮫が眉を上げて牡蠣殻を見下ろす。
意外の表情だ。
だとすれば、螺鈿の本名を牡蠣殻に告げたのは大蛇丸か。
杏可也は艶やかに笑い返して見せた。
「何とでも好きなように」
それを受けた牡蠣殻が笑み含んだまま頷く。
「では失礼ながら今までと変わりなく呼ばわらせて頂きます。杏可也さん」
「そうですね。その方が私としては嬉しくてよ?殊に親しい相手にはそう呼んで貰った方がしっくり来ます」
「お母上のお名前を継ぐのは本意ではない?」
欠けた歯を覗かせて牡蠣殻は尚笑顔のまま。
鬼鮫が眉をひそめて牡蠣殻を凝視している。
あらまあ、そんな顔をして…。本当に男は他愛もない生き物ねえ…。見たいものだけ見て全て知った気になりたがるから、そうも意外になるのでしょう?馬鹿らしい。
杏可也にはもう鬼鮫の反応を面白がる余裕が生まれていた。
遅かれ早かれ知れる事。
そして、遅かれ早かれ忘れる事。
否、忘れさせる。逃げ巧者たる牡蠣殻の器は空にしなければならない。
牡蠣殻を改めて見やる。
本心可愛く思って来た。
掴み所のない女だが、そんなところも含めて牡蠣殻が気に入っていた。それは杏可也にも当たる性癖だから。
弟の思い人で逃げ巧者。可愛がるに足る理由もあった。
こんな事になるなんて思いもしなかった。
深水に抱いたのと同じ感慨。
不吉な事。死なせるつもりはないけれど…