第13章 鬼鮫と磯辺
「何にそうも怒っているんです?私じゃあるまいし、どうしました?そんなに歯が欠けたのが悔しいんですか?大丈夫ですよ、あなたに限ってそんな事は大して気になりませんからね。顎の膏薬の方が余程悪目立ちしているくらいで、今更歯の一本や二本、大勢に変わりありません。むしろ煙草が吸いやすくなって良かったじゃないですか?」
牡蠣殻が、妙な顔をして斜め下を向いた。
「・・・・笑いましたね」
「・・・・・・・」
「・・・まさか自分でもそう思ってたんですか?・・・流石にそこまで野放図だとは思いたくないですが、有り得そうなのが怖い」
「・・・・ブクッ」
「・・・・・・・・・・・ブクッて何です。牡蠣殻さん?」
牡蠣殻の顔が上がった。
チリ、と首元から小さな鈍い音がする。
心なし黒目勝ち、双眸は僅かに風に凪ぐ柳の形、とは言え、消えていない怒りの埋み火。
閃く表情を俯かせ、二の腕で口許を払う仕草。
「煙草吸ってもよろしいでしょうか」
フ。
「どうぞ」
「失礼します」
爆ぜる硫黄の香り、燻る栗と煙。身動ぎに薫る松明花。
「すっかり煙草の匂いが馴染みになりましたよ。大して一緒に居もしないのに何なんでしょうねえ」
苦笑い。
抱えきれない体。多分、その心も。
手に余る。傷付いている。傷を付けて確かめたがっている。
何故なのか。
聞いた事がないからわからない。
何故聞かずに来たのか。
近付くのが怖いからだ。恋しい程に膨れ上がる我の正直な気持ち、その必死な我をすり抜けて大切な相手が行き過ぎるのが怖い。
傷は怖くない。怖いのは失くす事だ。
失くすくらいなら、無かった事に出来るようにしたかった。
遠くへ。距離を置いて遠くへ。
手が届かないから、だから、諦めてもいい。そう思えるように。
逃げろ、逃げろ、逃げろ。
いつものように。
「・・・駄目じゃないですか」
逃げる代わりに、笑みが溢れた。
「そんなに早く慣れたら飽きるのも早い。私は馬鹿を見るのはごめんです」
懐から出した皮袋にただのひと吸いで消した煙草を収め、牡蠣殻は鬼鮫をじっと見た。
「あなたの場合」
大きな手が首元に伸べられる。牡蠣殻は黙って首を上げた。
「あなたの場合、馬鹿は見るものではなく、やるもののようですがね」