第35章 『残業終わりの甘い誘惑 前編』 黒尾鉄朗
静かなフロアにかたかたと私のタイピング音が聞こえる。
ふうと一息つくと、デスクに置いたスマホがPM07:48を指していた。
就業後から休憩なしで作業していたことを考えると2時間以上パソコンと向き合っていたことになる。
残り1/4くらいで終わり。
後1時間もあれば余裕で終わる量だ。
「あー、お腹すいた。」
あいにく今日はチョコレート以外は食べ物はなし。
誰もいないし…と鞄からチョコレートを取り出し机の上に置く。
黒尾課長が好きそうなきれい目のラッピングをそっと解くと、中から一粒チョコレートを取り出し口の中へ放った。
「渡したかったなぁ…」
「そんだけ凹んでるんなら来た甲斐があったな。」
へ?
チョコレートを口に含んだままフロアの入り口を見れば、先ほど課長が袋を掲げてこちらへと歩いてくるのが見える。
「へ、課長?会食は?」
「終わった。椎名まだ飯食ってねえだろ?」
「はい…」
空いた隣の椅子を引き寄せ座った黒尾課長はビニール袋を広げ私の方へと見せつける。
そこにはコンビニのおにぎりと暖かいミルクティが入っていた。
「これ…」
「あとはこれだ。」
見せられたのはスマートフォンの画面。
そこには駅近くの居酒屋の予約完了の文字。
「会食じゃあ食い足りなくてな…
9時予約にしたけど…
キャンセルはもったいねえ。」
さっさと終わらせて飯いくぞ。
足を組み、ネクタイを緩めながらにやりと笑う黒尾課長に、不覚にも胸が高鳴る。
「あ、ありがとうございます。」
「腹減りすぎても集中力続かねえから少し食ったら再開するぞ。」
課長はぎしりと音を立てながら椅子から立ち上がると、私に背を向けタバコをちらりと見せながらオフィスの外へと歩いていった。
わざわざ戻ってきてくれたんだ…
そのことがただ嬉しくて、私は袋に入ったおにぎりに手を伸ばしながら笑った。