第35章 『残業終わりの甘い誘惑 前編』 黒尾鉄朗
本日は世の中の女性が色めき立つバレンタイン。
私は、本命とも義理ともつかない既製品のチョコレートを鞄に隠し持ち、出社。
あわよくば…と思う気持ちはないわけではない。
既製品でも渡せたらな…という淡い気持ちを抱え、早めに仕事を終わらせようと目の前の画面に集中する。
…しかし、世の中うまくいかないらしい。
PM3:40
就業80分前に黒尾課長からのお呼び出し。
昨日提出した書類に不備があったらしい。
…というより丸々やり直し。
というのも、先方から早めの修正の電話が入っていたらしいのだけれど、丁度私がデスクを離れていたため伝わってきていなかったらしい。
「椎名…このタイミングで言うのが申し訳ないんだけどさ、先方がこの書類朝一で使いたいらしいんだ。」
黒尾課長の瞳が眼鏡越しに申し訳なさそうに私を見る。
「…わかりました。今日残って仕上げていきます。」
「…悪いな。」
いえ、と呟き書類を受け取ると自分の席へと移動。
終電間に合うかな…とため息をつきながら私は再びパソコンに向かった。
必死で打ち込んだにもかかわらず無情にも鳴る終業のチャイム。
いつもはぽつりぽつりと残業する人がいるが、既婚者が多いこの課はみんな予定があるのだろう。
ほとんどの人が帰り支度を始める。
「椎名、大丈夫か。」
課長に声をかけられるが全く終わる気配はない。
「まあ、終電までには終わらせます。
終わったら課長のパソコンに確認メール送りますね。」
「お前、一人で大丈夫か?」
心配してくれる課長の気持ちが嬉しくて、私は小さく微笑み課長の背中を押す。
「課長、今日先方との会食じゃないですか。私は大丈夫です。
行ってください。」
何か言いたげな顔の課長に笑顔を向けてフロアから追い出せば、私以外誰1人いないフロアが完成した。
「さあ、やりますか。」