第10章 名前を呼んで
「れ、い……?」
中也さんはやはり困惑しているのか、たどたどしく反復するのみ。
そうだよね、いきなり呼び方を変えてなんて言われても、流石の中也さんだって困っちゃう。
それに、何よりも白石蝶の名前を付けてくれたこの人には、私の中でも罪悪感を感じる部分がある。
『………ごめんなさい、変な事言って。やっぱり忘れ___』
途端に感じた、額への柔らかな感触。
いい加減覚えた、中也さんの唇の暖かさ。
中也さんの唇が離れてから、呆然として額に手を当てる。
なんで、このタイミングでキス…?
困ってるはずでしょう?嫌な事を言ったはずでしょう?
「お前、それ悪い癖だぞ。俺は嫌なんじゃなくてちょっと戸惑っただけだ…お前からわがまま言われて、嬉しくねえわけねえだろが」
『で、でも蝶は中也さんが付けてくれ「澪」…ッ!』
涙目になって、中也さんの目を見つめた。
ずるい顔、普段外では絶対に見せないような優しい顔。
私の特権のようにすら思えていたその顔を見つめて、胸の奥底まで浸透するようなその声を感じ取る。
これだ、これが、満たされるって感覚だ。
久しぶりに口にした。
久しぶりに、誰かに言えた。
『ちゅ、やさ…ッ、…』
「……お前の名前だろ?澪って。ずっと前に教えてくれてたもんな、元の名前は零とよく似た名前だって」
覚えててくれた。
零…0の言い方を変えたような“私”の名前。
私が生まれた時に付けられた、魂の奥底に閉じ込めていた、大事な大事な私の名前。
ずっと殺そうと思っていた…何度も何度も死んできた、私の名前。
『なんで、こういうのだけ察しがいいの…っ?私なんにも、言ってない…』
「言われなくても分かるっつの、俺は誰よりお前を理解してる自信はあるからな。寧ろ気になってたくれえだから、そこまで教えてもらって俺も今すっげえ嬉しいよ」
『……今日、だけ。明日からはまた蝶に戻るから…』
「呼んで欲しけりゃいつでも言えばいいさ…なあ、名前。ちゃんと教えてもらっていいか?」
中也さんの言葉にまた泣きそうになって、涙を拭ってからゆっくりと口にする。
しかし口にする前に、口元が思わず緩んでしまった。
『ふふっ、…中也さんって本当に凄いの。私、びっくりしちゃったくらい』
「俺が…凄い?」
『うん……改めて、澪____“白石 澪”です、中也さん』