第10章 名前を呼んで
「……っ、馬鹿、お前、なんとも思わねえのか…?見られてたんだぞ」
『興味本位なんかで耐えられるようなものじゃないでしょ、あれは。中也さんくらいに頭おかしい人じゃないと、あんなの全部見れっこないし…こんな人間と一緒になんていられないよ』
「…俺の頭は生まれた時から、お前の為に頑丈に出来てんだよ」
中也さんの強がりにクスリと笑って、中也さんの腰元に腕を回す。
そういう事言うから頭おかしいって言われるんだよ、もう。
『太宰さんに聞いた時、本当にこの人頭おかしいんじゃないのって思った。何か精神的な病気にでもなっちゃったんじゃないかって』
「おい」
『でもね、結局嬉しかったの。全部分かってくれてたのも、知ろうとして頑張ってくれたのも、その上で私と一緒にいて、生きていこうって言ってくれてたのも』
本当に嬉しかった。
こんなに頭がおかしいくらいに私の事を想ってくれる人…というかこんなに頭がおかしい人、本当に初めてだったから。
他の世界から来ただなんてものはまだしも、死ねない私に普通の生活を与えてくれて、この身体と真正面から向き合って私を幸せにしようって考えてくれる人だなんて、生まれて初めてだったから。
人体実験は言葉では言い表せないような壮絶なものだったけれど、それのおかげでこの人は私を知ってくれた。
そのおかげで、こんなにも私の事を理解してくれた。
私にたくさん、初めての幸せを注いでくれた。
「……お前の方こそ頭おかしいっつの」
『私の事を頭おかしいくらいに大好きな中也さんの事が大好きなんだもん、当たり前だよ…普通は比べたりなんて出来るようなものじゃないんだけど、世界で一番、中也さんが大好きだよ』
「お前の世界一は規模がデカすぎて計り知れねえわ…ありがとよ、蝶」
中也さんに名前を呼ばれる度に私の中は満たされる。
けれど、それと同時に“私”の中に、ぽっかりと小さな穴が開く。
蝶と呼ばれてそれが自分の名だと無意識に認識するまでには、勿論いっぱい時間がかかった。
今となっては違和感なんて勿論無い。
けれど、私に深く根付いているものが、それと同時に虚無感を生む。
『中也さん、わがまま言っていい…?』
「ん?いいぞ、なんでも言ってみろ」
中也さんに抱き着いて顔を再び埋めてから、小さな声でポツリと言った。
『今日だけ…“澪”って、呼んで下さい』