第29章 ・ウツイの娘 その1
「離して、私は」
言いかけて文緒はその先をすんでのところで飲み込んだ。自分は牛島若利の妹だと言いたかったけれどそういう訳には行かない。名前を出したくなかったし確かこの相手はバレーボールとは縁遠かった。以前条善寺の照島らあたりとやりあった時はウシワカの名が通じた為に何とかなった所があったが無関係無関心が相手では意味をなさない。
そうやって文緒が売られた喧嘩を割と買ってしまう性質である所を我慢して穏便に済まそうと努めている間にも相手はどんどん調子に乗っていく。指先で首筋に触れられた途端、もう文緒は駄目だと思った。
「いい加減にして。」
我慢の限界を突破する寸前だった。もう少し何かあったら自分でも何をしでかしたかわからなかったと後で文緒は思う。この時文緒は無意識にスカートのポケットにあったあの携帯型映像機器を握りしめていたのだから。相手はそれを単に文緒が落ち着かなくなっている故の行為としか捉えなかったようだが次の瞬間には自分が慌てることになる。
「その娘から手を引け。」
文緒にとっては聞き覚えのあるどうしようもなく愛しい声が響いた。
「兄様っ。」
思わず文緒は声を上げていて次の瞬間気づけば義兄の腕の中にいた。流石若利と言うべきか巨躯に反して素早すぎる。
「すまん文緒、」
若利は呟いた。
「俺とした事が少し判断が遅かった。」
「そんな、とんでもないです兄様。」
文緒もまた呟いた。安堵で体から一気に力が抜ける気がする。一方若利は文緒を抱きしめたまま今回は本当に相手を睨んで話を続ける。
「惹かれるのはしかたないがこいつは俺のだ。これが目に入らなかったか。」
若利は言って文緒の首にかかっている例のペンダントに触れた。相手はビビりまくりペンダントと若利を交互に見るばかりである。モゴモゴという声はえ、何、彼氏と疑問形で言っているようだ。