第32章 決死の覚悟
それに、これ以上駄々をこねる時間はなかった。鍵をかけた扉の外が騒がしくなってきている。
扉が開いてしまえば、ナイフを取り上げられてしまう。そうなれば私にはもう切り札が無い。
「……分かりました。その条件をのみます」
「…懸命な判断だと思うわ。…また烏野に戻るよう、手続きをします。今日は部屋に戻って静かにしていなさい」
「……これを…」
ポケットにあったハンカチを祖母に手渡した。
いまだ滴り落ちる血が、祖母の着物にシミをつくっている。
「ごめんなさい。傷つける気はありませんでした」
「……」
祖母からの返事はなかった。祖母は黙って私からハンカチを受け取って、早く出て行って頂戴と言わんばかりに顔をそむけた。
部屋から出ようと扉に手をかけたところで、外から扉が勢いよく開かれた。扉から現れた織部さんと目が合うと、私を捉えた織部さんの瞳が少しだけ大きくなった。
「織部、手当をお願い」
「かしこまりました」
祖母の姿を一瞥して、織部さんは何があったのかも聞かずに部屋から去って行った。救急箱でも取りに行ったのだろう。相変わらずどんな状況下においても織部さんは微塵も狼狽える様子が無い。
「貴方は部屋にお戻りなさい」
振り返った先の祖母の目は、いつもと同じ冷たい色を帯びている。傷はそう浅くないはずなのに、痛みなど感じていないかのような様子だ。故意でないとはいえ、人を傷つけてしまったことは気分のいいものではない。
もう一度謝罪の言葉を口にして、私は部屋を後にすることにした。
――こうして、私は晴れて宮城に戻れることになったのだった。
それがまた、切ない想いを重ねるだけの一年になるとも知らずに。