第2章 カカオフィズ(及川・岩泉)
「マスター」
及川が声をかけると、カウンターの隅でワイングラスを磨いていたマスターは顔を上げ、柔らかく微笑んだ。
白髪だというのに、まっすぐと伸びた背中。
白シャツの襟元に蝶ネクタイ結び、贅肉の無い体はまるで若者のそれだ。
このバーを40年守ってきた男は、まるで孫を見るかのように及川に向かって目を細めた。
「ジントニックと、あそこのカップルのお会計をまとめてくれる?」
「かしこまりました」
「それと・・・」
及川は、マスターの後ろの棚に綺麗に並べられたウィスキーやワインの瓶を見つめ、瞳を揺らす。
「あの目つきが悪くて不器用そうな男に、もう1杯出してくれるかな。この店でいッッッちばん安くて粗悪な酒。明日、頭が割れるくらい悪酔いするようなヤツね!」
ヘラヘラしているが、瞳は笑っていない。
本気なのか、冗談なのか分からないこの男に、マスターはのんびりとした動作で頷いた。
すると、及川は“あと・・・”と続ける。
「あの可愛い彼女の方にも・・・カカオフィズを」
「・・・女性の方はもう、これ以上は無理だと思いますが」
「飲んでもらえなくてもいいんだよ・・・」
カウンターに突っ伏し、岩泉に優しく見守られているヨシノを見つめる。
「バレンタインデーに会う約束をしていたから・・・せめて、カカオのお酒をプレゼントしたいと思ってね」
マスターは静かに及川へと瞳を向けた。
端正な顔立ちに、恵まれた体型。
きっと何かのスポーツ選手なのだろう、どことなく普通の人間とは違うオーラを出している。
しかし、“カカオフィズ”というカクテルの名を出した時、とても切なそうな表情をした。
「迷惑だろうけれど・・・あの二人、もう少し長居すると思う」
「お気になさらず。お客さんが居たいだけ開けておく、ここはそういう店です」
「・・・ありがとう」
爪先まで手入れされたシワだらけの手が、カカオリキュールとレモンジュースをシェイカーに注ぐ。
シャカシャカシャカ。
人もまばらになった店内に響く、シェイクの音。
その音色は耳触りが良く、心の底に静かな水滴を落とす。
及川は静かに瞳を閉じた。