第26章 桜の咲く頃 三幕(九歳)
(…いい女が此処にも居たか)
「さて、そろそろ行ってやらないきゃな。いつまでも、親が迎えに来ないのはおかしいだろう?」
「そうだな。此処に仮にも父親と母親が居るのに、黙って立っているわけにはいかんな」
信玄の手から手ふきを取ると、ぐいっと目元を拭いた白粉は
はぁぁーと落ち着くように息を吐き、その表情を普段のものに戻した
少しだけ目元が赤いが、信玄はそれを知らせない
「さて…開けるか?」
「湖様。湖様のご両親が来られましたよ」
襖の外の気配が変わると、三成は櫛を置き湖に教える
「え…」
チリリン…
鈴の音と一緒に襖を方を向けば、信玄と白粉の姿が目に入った
「湖」
白粉が、泣くのを我慢するような表情で湖に向かって手を伸ばす
「かかさま…っ」
せっかく止めた涙は無駄だった
意図せず頬を伝うそれにかまいもせず、椅子を倒して白粉に駆け寄ればいつもより強く抱きしめてくれる手に、今度は声まで出てしまう
「馬鹿な子だ。私の事など、聞き流せばいいものを…」
「っふ、うっ…」
その背中を信玄が、ぽんぽんと叩き
「出来ないんだよな。湖は、かかさまが大好きだからな」
と、微笑むのだ
親子の図だ
その場に居た三成も女中達の目にもそう映っている
その様子を見守るものは、笑みを零した
やがて、バタバタと走ってくる音が聞こえ信玄が「来た来た」と苦笑いをする
「お前たちの事が大好きな世話役が来たぞ」
「…たち?湖が…だろう」
「…お前も、気づいてやったらどうなんだ…まぁ、涙が初めてじゃ…先は長いか…」
信玄は、白粉の様子に「困ったもんだな」と眉をしかめたのだった
「白粉殿―っ、湖様―!」
「落ち着けよ、兼続っ…ひっぱんなって…っ」
まだ夕日も出ていない
これから、謙信も佐助も現われて…
(何があったかしっかり聞くが、あの男児も悪いようにはしない……ように、してやらんとな)
謙信が何を言い出すか…その反応を考える信玄だった