第26章 桜の咲く頃 三幕(九歳)
「……普通に暮らす人間が、妖や鬼、神と呼ばれる存在と会うなど一生生きていても無いことです」
こくりと頷く湖を見れば、彼女もまた少しずつ理解し始めているのだろうと思った
「知らない物に対する恐怖は拭えないでしょう…書物の中には、角の生えた鬼や般若など出てくる物もあります。そう言った物の怪類いは、すべて物恐ろしく想像で描かれていると、私は思っています」
「そうぞう?」
「ええ」
不意に三成は襖の方を見た
「書物や言い伝えの影響力は絶大です。固定観念に縛られ、出会った事のないそれらを恐ろしいという思いをです」
「かかさま…かかさまも、怖い?」
湖の声が震えたのが解る
(…そうか…あの表情はそうゆうことでしたか)
「…いいえ。白粉様は違います」
「それは…三成くんだから?」
「…いいえ。きっと違うでしょう…お二人はいかがですか?」
側にいた女中達に声を掛ければ、彼女たちは一瞬躊躇したあと話出す
「初めは…っ、初めだけです。湖様を連れて現われた白粉様は、恐ろしく見えました…ですが、それはあのように大きく話をする獣を初めて見たからです」
「私たちは知っております。白粉様が常に、湖様を見守っていらっしゃるのを。おそばに居ないときには、ずっと心配されているのも…拝見しております」
「そうです。ですから、今は白粉様を恐ろしいなど思っておりません」
後ろに控えた女中達がそう言えば、湖は「そっか…」とスンと鼻を鳴らす
「白粉様を知った者は、皆そう言うでしょう…あの方は、湖様の母様でいらっしゃいますから…」
「うん……そうなの。湖の大切なかかさまなの…」
「だ、そうだ。白粉」
「……」
襖の外に立っていたのは、信玄と白粉だ
匂いを追って湯殿まで来れば、中から聞こえた話し声
それに足を止めた二人は、その声をずっと聞いていた
真っ白な白粉の肌がうっすら色づく
(なんだ…これは…)
視界が潤んでよく見えない
(私の目がおかしくなったのか…)
「ほら。いい女の涙は美しいと思うが…今は、引っ込めないとな。母親として湖を迎えに行くんだろ?」
信玄は懐から手拭いを出し、差し出した
だが、白粉の手は動かない
むしろ、手ふきを何に使うんだ?と言う様子で信玄を見るのだ