第26章 桜の咲く頃 三幕(九歳)
時間はゆっくりと過ぎ
湖のまぶたの落ちる頃
「かかさま…いま、なにしてるのかな…」
身体を揺らす湖の髪を拭くのは信玄だ
湯浴みの時間も眠かったようで、さほど時間をかけずに上がってきた三人
謙信は用があると言い、信玄の部屋へとやってきた湖
女中が気を利かせ湖の布団を隣にひいてはくれているが
(使わないだろうな)
はぁっとため息をする信玄
(俺は、湖の子育て中にどれだけため息をつくんだろうな)
パンパン…
髪を挟んで叩いていれば、ガクンと下がる頭
「おーい、湖」
「…はぁい、おきてるよぅ」
「くく…っ、もう眠いな」
「だいじょーぶー」
そんな返事が返ってくるが、とても大丈夫そうには見えない
足は家康の薬が効いているのか、痛そうな様子を見せない湖
それどころか、少しではあるが風呂場で何も言わず歩いていたのだ
(家康に礼をいう必要があるな)
小さな背中が信玄の胸に傾いてくれば…
「寝たな」
くくっと笑って褥にその身体を置こうとうする
だが、いつの間にか握られた寝衣の袖口は、信玄が離れることを許さないのだ
「こらこら…」
まったく眠くはないのだが、隣に寝転びあやしてあれば湖は嬉しそうに口元に笑みを浮かべた
そして、うっすら目を開ける
「…ととさま…まだ、だいじょう、ぶ…くろ、く…ない…」
「ん?湖?」
(黒い…?なんの話だ?)
すりっと自分の胸に顔を寄せる湖はそのまま目を閉じてしまった
すぅすぅと、心地よい寝息が聞こえ始める
(大丈夫、黒くない…なにがだ?)
湖の言葉が気になった信玄
だが、襖の外からかかった声にその疑問は一時途切れる
「信玄」
「謙信か、どうした?」
音を立てず襖が開き、謙信が入って来る
「お前、どこかに行くのか?」
寝転んだまま謙信を見れば、彼は風呂上がりの衣を着替えいつもの着物なのだ
信玄の側に片膝をついた謙信は、紙を差し出す
「これは…土地神からの手紙か?」
「そうだ」
小さく丸められたそれを開けば、信玄はじっと文字を追う
「…白粉の調子が悪い…か」