第26章 桜の咲く頃 三幕(九歳)
六歳になった時、一度だけあったその人を湖は覚えていた
大勢いた人間を、あの時だけで覚えるのも驚きだ
「黒い方…ちょっと怖そうなお兄さんの方だね」
「湖、お前。そんな風に思ってたのか?」
白粉が部屋に入り、信玄の横に湖を座らせれば
「ん?うん。だって、お着物も真っ黒なんだもん。私は、ととさまや、謙信さまたちのお着物の色の方が好き。綺麗だもん」
「色な。なるほどな」
子どもにとって色の与える印象は大きいのだろう
「…湖、あまり懐くなよ。奴らは今は同盟を組んでいるが、本来は敵対関係だ。いつ戦になるとも知れん相手だからな」
「…戦…どうして戦をするの?」
「湖?」
謙信との会話に、幸村が「どうした?」という用に湖の名前を呼ぶ
「幸も謙信さまも…ととさまも、佐助兄さまも…どうして戦をするの?」
それに最初に答えたのは、信玄だった
「戦は、嫌いか…」
「うん。嫌い。桜様、言ってたもの。戦になると、犠牲になるのは人だけじゃ無い。弱い生き物から先に犠牲になるんだって。人は、田畑や森を荒らすだけでなく、戦になれば、いたずらに生き物の命を奪うようになるって…戦は、どうして生まれるの?」
「戦が生まれる…か…そうだな、難しいな」
信玄が苦笑すれば、湖は「同盟でいいじゃない。おともだちなら、戦はしないんでしょ…」とぽつりと漏らすのだ
「相手が侵害してこなければ、俺は戦を起こす気はない。この越後に、俺から何かを奪おうとするなら、それを守る為に戦う」
謙信のその声に、湖は顔を上げ謙信を見つめた
「守る…?」
「俺は、奪われた物を取り戻すためだ」
「取り戻す…」
「導いてくれる人を守って、平穏を取り返す為…だな。俺は」
「平穏…」
謙信、信玄、幸村が答える言葉を湖はしっかり聞き取ろうとしている
その言葉を噛みしめたあと、白粉の方を向いて聞いた
「かかさまは?」
「私か?私は、戦などしない」
「…戦はしなくても、争うことはあるの?」
「争う…?そうだな…私は、お前を守るためなら何でもする…」
「私?」