第26章 桜の咲く頃 三幕(九歳)
「心配するな、少しの間だけだ。湖、此処から出ずに居ろ」
謙信の様子に、何かあったのだと思うも聞くことは出来ず
此処から出るなと言われても、今の自分じゃ動けない
だから、にこりと笑って湖はこう返事をした
「うん。おじさんとお話して待ってるね」
「…良い子だ」
謙信の手が湖の頭を軽く撫で、そして茶屋の外へと出て行くのだ
その後ろ姿を見送っていれば、茶屋の亭主に「お兄さんかい?ずいぶん優しそうだな」と言われる
「…違うよ。湖の兄さまは緑のお着物の人。あの人は…」
(謙信さまは、私の…なんだろう…おともだちじゃない、兄さまでも…家族?)
「…大切な人」
「おやおや」と頬を染めた亭主
朝の湖の食事の量を覚えていたのだろう
少なめな米に、少量の総菜を何品も小さな器に盛って出してくれる
「うちは料理やじゃ無いから、品数はないが…うちのかみさんも、あんたみたいに食が細いんだ。だからこうして、少しずつたくさんの物を食べるんだよ。ゆっくりでいいから、食べてごらんよ」
盆の上に置かれている少量ずつの食事は、湖にとってもとても食べやすいものだった
ゆっくり食べていれば、仕事の合間に亭主が話しかけに来てくれる
謙信に頼まれたからというのもあるが、湖の食事の取り方が自分の身近な人間と似ていて心配だったのだろう
湖は、謙信や佐助が居ない事は不安だがそれは表に見せまいと、にこにこと食事を取っていた
そんな湖を置いて外にでた謙信と佐助は…
「佐助、どうなっている」
「ほぼ終わっていますよ。残りは三人です」
「ほぅ…その身体ならば、以前と変らない働きができるようだな」
「そうですね、ほぼ元の身体と大差ないです」
佐助の回りには五人、倒れている武士がいる
残った三人は謙信が現われた事で、後ずさりしているのだ
「それ以上後ろに下がると、撒菱(まきびし)がありますのでご注意を」
「っく…」「くそっ」
男達は逃げ出す道を探しているが、片側は谷、反対は崖、そして後ろは撒菱だ
逃げ出す場所がない
「貴様らは、北条の者だろう。こざかしい事ばかり…いい加減、腹立たしくなってきたところだ」