第25章 桜の咲く頃 二幕(六歳)
「湖」
「……」
「…こちらに来い」
ぴくりと耳が反応するが、返答がない
「俺にも同じだ。湖、お前が悪さをしたわけでもない…なんで、そんなに黙っているんだ?」
ため息交じりに信玄が尋ねれば、重たい空気に気づいたのかようやく湖が声を出した
「だって…あのこ、湖のことをみたら、またいうもん…おかお、みせたくない…」
光秀の胸に顔を当てたまま籠もった湖の声が聞こえれば、
「ほぅ…ならば、目の前の小僧の目をくりぬいてやろうか?」
なんとも恐ろしい言葉が、真上から聞こえるのだ
がばっと、湖が顔を上げるのと同時に襖も開く
「みつひでさま!」
「光秀、子ども相手に何を言ってる?!」
湖と秀吉の声が重なった
くくっと意地悪そうな笑い声と、その振動が湖に伝われば、光秀が本気でそう言ったわけでは無いことがこどもの湖にも解った
「やはりな…着物に顔を押しつけてるからだ。頬にあとが残ってるぞ」
ようやく上がった湖の頬に親指を当てると、撫でるように頬を触る光秀
「湖、そこから降りろ」
だが、その指は直ぐに離れるのだ
いつの間にか立ち上がった謙信に、湖が攫われたから
「っ、けんしんさま」
「……明智光秀、貴様は外に出ていろ。佐助、そこにいるのは構わんが、襖は閉めておけ」
「…そうさせてもらおう。こどもの喧嘩に興味は無いが、湖が何と返答するかは興味がある…」
湖を抱えていた温もりが残ったまま、光秀は立ち上がると仁王立ちする秀吉の方へと足を進めた
「眉間に皺が寄っているぞ、秀吉」
「お前が冗談に聞こえない事を言うからだ」
開いた襖が閉まれば、謙信は信玄の横に湖を抱えたまま座るのだ
湖は、不安な顔を2人に向けた
2人と目が合えば、次に兼続の声がする方をちらりと伺う
その兼続の背中越しには、先ほど合ったばかりの少年の着物が見えた
(あのきもの…さっきの…)
間違いなく、湖を罵倒した少年の着物だ
無意識に、謙信の着物を持つ手が強く握られれば、少し震えた声で少年に問いかけるのだ
「…おなまえは?」