第26章 桜の咲く頃 三幕(九歳)
(「お守り」はできないけど、特別な「おまじない」ならできる)
その顔を見上げながら頬を膨らませていた湖は、あることを思いついて信玄の頬に両手を添えた
「ん?」と答える間もなく、湖の甘い花の香りが鼻先をくすぐり、小さなリップ音がするのだ
(どうか、ととさまの「それ」が悪くならないように…湖が、戻ってくるまで…どうか、そのままで)
今日、これから登竜桜の元へ向かう
戻りは夜だ
今日一日、いや半日もすれば信玄とまた会える
なのに、何故かざわつく胸の内
今朝から突然色が濃くなった信玄の靄のせいか
それとも…
つま先立ちをし、背を伸ばし…大好きな人に「おまじない」を
「……、湖…そこは駄目だって教えただろ…」
「いーの。湖の「お守り」なの。ととさまが側に居なくて不安なの」
信玄は、自分の口元を人差し指と中指で軽く押さえ眉を寄せる
含み笑いはどこぞへか?
「大好きな信玄さまが、元気でいられるように…湖のことを、忘れないように」
九つらしくない表情をする湖
(この娘は…本当に…)
記憶があるのではないかと思うくらい大人びた顔をするのだ
「……忘れるわけ無いだろ。今日中には帰ってくるんだ。大げさだぞ」
まだ寄ったままの眉間の皺
だが、その手は優しく湖を抱き上げる
見上げていた顔が、今度は見下ろす位置にくる
「気をつけて行ってこい」
「うん」
そのまま広間を出れば、白粉がすぐ近くで湖を待っていた
「登竜桜によろしくな」
「伝えておく」
後ろ髪を引かれる思いとは、こうゆうことを言うのだろうか?
そんな事を考えながら、湖は鈴の器で佐助の馬に乗っていた
隣ではすでに瞳を閉じている白粉がいる
はと視界を上げれば、風景が違う
前はこんなに青々いしていただろうか?
木々がずいぶん濃く色づき始めていた
夏の知らせだ
すんすんと、鈴の鼻が鳴る
「湖さん、どうかした?」
なぅっ
鈴が佐助を見て鳴く
「…ごめん、それじゃあ解らないや…あ。でも、今戻らないでね」