第26章 桜の咲く頃 三幕(九歳)
コロを撫でている湖と、庭に降りて大工仕事をしていた信玄
信玄は手ふきで額を拭くと、ふぅーと息を吐く
「…ないしょ…じゃ、だめ?」
「それは聞き逃せないな。父親として」
「じゃあ、内緒にしてね。あのね……」
名前を聞いた信玄は、「あー…」と返答を濁した
「でね。ずっとじゃないのだけど、たまにどきっとなるの。びっくりしているわけじゃないのに、湖病気かな?」
「それは、そいつだけなんだろう?」
「うん…だと思う」
「あー」と声を出すと、信玄は
「湖は、そいつと会えなくなったら寂しいか?」
「寂しいよ」
「抱きしめて欲しい…と思うか?」
「抱きしめる…?んーーー、解んない。でも、手は繋ぎたいなぁって、ちょっぴり思う」
「そっかぁ」と鉈を下ろすと、どかりと丸太に座った信玄はその頭をかく
「それはな。「恋ふ」ってやつかもな」
「こふ?」
「他者に何かを求めているんだよ。異性や動物、花や鳥、コロとかもだな。慕う気持ちだよ。そして相手にも気付いて欲しいってことだ」
「そうなの?」
「そうだぞ。あーぁ、無邪気な俺のお姫様も、少しだけ大人になるのか…」
信玄が空を見上げるようにすれば、湖もその視線を追って空を見た
だが、ぺろりとコロに指を舐められすぐに視線が下を向けば
「恋ふ…なら、ととさまにもそう思ってるよ」
「俺にもか?」
信玄の視線も下がる
「うん。湖は、ととさまも大好きだもの……あ。そっか、好きってことだね」
自分で気付いてしまった湖は、頬を染めた
そんな様子に信玄は、困ったように眉を下げて笑う
「どうしよう…湖、好きになっちゃったんだ」
「狼狽えることじゃ無い。普通の感覚だ…これから、大きくなって行けば、また別の誰かを好きになるかもしれない」
「…そうなの?」
「いつ誰と何処であうか、それは誰にも解らないからな」
「ととさまにも?」
「そうだ。俺にもだ」
湖が出した名前の人物に、まだその思いが伝わらないように
(九つのこどもかぁ…こどもは急に大人になっちまうもんだな…)
「湖、これは俺と湖の秘密だ。まだ誰にも言うなよ」
「うん、わかった」
素直な湖はそう返事をする