第3章 名前のない怪物
姉は常に完璧だった。
見た目は勿論、頭だって色相だって性格だって。
誰一人として姉を悪く言う人間を、常守朱は生まれてこのかた見た事が無かった。
勿論姉は、朱に取っても完璧な姉だった。
「――お姉ちゃん。公安局に入るって本当?」
両親が早くに他界した朱は、姉である綾が唯一の家族だった。
姉がいるから寂しいなんて思わなかったし、自分は不幸なのだとも思った事は無かった。
スーツのジャケットを羽織りながら、綾は朱を振り向いた。
「えぇ。私がしっかり働くから、朱は自分の好きに生きなさい?」
それが姉である綾の口癖だった。
柔らかな不快感
今から8年前。姉が公安局へ入局をした日。
公安局に入った姉は、毎日忙しそうにしていた。
けれど半年ぐらい経ったある日。
家に帰ると姉が荷物を纏めて朱の帰りを待っていた。
「お姉ちゃん?その荷物、どうしたの?」
「朱。ごめんね。仕事が忙しくてなかなか家に帰る事が難しいし、朱の勉強の邪魔をしちゃうから。――私、家を出ようと思うの。」
「家を出るって――、私を一人にするの?」
朱が縋るように問えば、綾は優しく笑った。
「大丈夫よ。たまには戻って来るし。朱の口座にちゃんと毎月送金するようにしてるから。」
「そうじゃなくて――!」
疑問が確信へと変わる。
今、姉の中に私はいないのだ。
朱が手を伸ばした瞬間、玄関の扉が開く音がした。
「――綾。そろそろ行かないとまずい。」
現れたのは、長身に黒髪の男性だった。
「慎也。――朱。紹介するわね。恋人の狡噛慎也。慎也、妹なの。朱って言うのよ。」
「――ハジメマシテ。」
男は特に抑揚の無い声で、朱を一瞥してそう告げる。
朱は目眩がするのを必死に堪えた。
綾の顔を見ていれば嫌でも分かった。彼女の世界には、今彼しか住んでいないのだ。
「じゃあ、朱。何かあったらすぐに連絡して。これ慎也の住所。」
そう言って、姉は部屋を出て行った。
それが姉の姿を見た最後。それでもしばらくはたまに連絡が来ていたのだが、3年前を境にパタリと連絡が取れなくなったのだ。
渡された住所に行っても、姉は愚か狡噛慎也の姿さえ無かったのだ。